2015/08/10   言葉に含まれる意図

代表監督のコメントがひとり歩きする。
メディアは、読む者があれこれと想像できようなコメントを伝える。

「言い訳ばかりしているとメディアは伝えているが、それに対して怒っている」と言ったとか、
「わたしは、フットボールを知っている」と言ったとか、
まるでケンカを売っているよう。

格好の餌食となるのに......。

監督のコメントよりも、選手のコメントに気になるものが多かった。
「自分のクオリティーの低さを痛感した」
「自分は代表に縁がないのかな」

反省のコメントはまだいい。
しかし、マイナスの要素が強すぎるのだ。
選手は、そんな悲しいコメントをはいてはいけない。
選手に、そんな悲しいコメントをはかせてはいけない。

マイナスは、マイナスを呼び込む。


監督は、今回のメンバーの中で、2、3人素晴らしい選手を見つけたという。
ということは、20何人かはダメだと言うこと。

だんだん代表、観たくなくなっちゃうなあ......。



言葉はひとり歩きをする。
発したときと違う意図で伝わることもある。
しかし、伝わるだろう方向性を想像することはできる。
防御策を施すことも不可能ではない。
それよりもなによりも、向いている方向性が"健全"でないといけない。

言葉をつかう者として、人の振り見て我が振り直そっと思った。


言葉は意図が含まれている。
狂気と驚喜とどちらにも変容する準備を整えて待っている。



ところで、代表監督とオーケストラの指揮者って似ているもの?
どんなにいい演奏者が揃っても、どんなにいい楽器を揃えても、指揮者がどんな音楽を奏でたいかによって、演奏されるものは大きく違ってきてしまう。同じ曲とは思えないほどに。
逆もまた真なり!

どうせなら、心に響いてくるようなエネルギーに満ちた、感動的な音楽を聞きたいものだ。



2015/08/07   ダメ出しは......苦手

いろいろなことにダメ出ししている上司がいる。
体脂肪が多いだの、基礎体力がないだの、ファイトしてないだの......。

それで結果が出なかったら、「ほろ、言った通りだろ」となるのか、
それとも、さらに八つ当たりするのか。
「オマエらが、ダメだったから」


チームゲームからみる、目標達成や理想を実現するためのアプローチは、大きく分けてふたつと、その中間。
達成するために、自分の方法論にあった人を集める。
今いるメンバーで、できることをベースに、あった戦術や方法を生みだす。

理想ばかり言っていても、結局勝てなければ非難にさらされるのは明々白々。
だから勝つために、 お金のあるところはお金をかけて人を集める。
お金のないチームは、おのずと選択肢は狭められる。
国の代表チームも同じ。
どんなに、お金を積んでもメッシを日本代表に呼ぶことはできない。

思った人材がそこにいなかった場合どうするか。
そこが問われている。


ダメ出しは、まず自分の立場を有利に働かせる効果がある。
赴任したばかりの上司が、部下にダメ出しするのは、自分の立場が上だぞということを示す効果がある。
いわば動物のマウントのようなもの?

一方で、ダメ出しは必要だとする考えもある。
ダメ出しして自覚させなければ、その人のおかれた状況もわからないだろうし、さらなる成長もできない。
だから言う。

自己顕示欲からくるダメ出しと、愛情からくるダメ出し。
厄介なのは、愛情のあるダメ出しだったのに、結果が出なくて言い訳となってしまう状況......。これは厳しい。



自分のことを考えると、ダメ出しばかりされると、モチベーションが上がらない。
欠点ばかりを指摘されると、イヤになってしまうタイプ。
おだてられて木に登るほうだ。
○○もできないの!?
こうあるべき!
△△すべき......も苦手だ。

人を育てるのに、長所を伸ばすのがいいか、短所を補うのがいいかという比較がある。

ピンチのときや勝負の場面、ここぞというときに、何をよりどころとするか。
苦しい思いをして補ってきた短所か、
苦しい思いをして伸ばしてきた長所か、
同じ「これだけやってきたのだから」――という強いモチベーションになるのは、自分のストロングポイントを強化してきたほうだと思う。



人の上に立つ人は、部下や周りに、そうしたほうがいいという話ではない。
自分自身に対して、どちらを選択するほうが、自分が納得するかということ。
短所には目をつぶって、放っておいてもいいということでもない。


もうすぐ、今おかれている状況の結果が出る(代表チームの話ね)。
上に立つ人には早く、人にダメ出ししたり、批判ばかりしている自分に気づき、状況を極力冷静になって見つめ、少しでもその"不健全"な状態から脱してほしい。
それが、自分のためでもあり、スタッフやチームのためでもあり、日本のためでもあるのだから。

どちらにして、結果は時間とともに訪れる



2014/04/15   ばなびずがどばらない・・・・・

今週のアタマから、朝はまずくっしゃみで目が覚めというか、

しゃみと鼻水で起きざるを得なくなり、

通勤の新幹線の中では鼻をかみまくり、

事務所でもティッシュ箱が手放せない――そんな状態。


花粉症は乗り越えてきたものだと自認していたのに、勝手な思い込みだったのか!?

それでも、人と会っている時には不思議と鼻は止まり、

分かれた瞬間に、だだーーっと(スビバセン)

今週は、取材で外回りが多いのに、どうなるんだろう・・・・・。



お願い、なんとかしてくださ~い!

と思わずすがりつきたくなるような気分だ。



と、そんな時、内山がブログで書いている、迫 登茂子先生の本の一節を思い出した。

※内山のブログはこちら ↓



内容は、こんなことだった――

祈りや言霊のすごさを言っているものだった。

光を当てて祈り(独特な言い方ですが何となく分かりますよね)、

大宇宙のバイブレーションと一致すると(何となく分かりますよね)、

「生命」「愛」「平和」とつながる。

ただし、「祈り」が「ねだり」になると、それはエゴでしかない。




自分が何かに手を合わせる時、

例えば、神社や寺社にお参りに行った時や、神棚、仏壇に向かったりとか、

道端のお地蔵さんにだったりとか、

純粋に「祈り」だけを届けているかというと、自信がない。

「みんなが健康でありますように」――これは、祈りか!?

「病気が快癒しますように」――これは、祈りか!? ねだりか!?

「会社が儲かりますように」――これは!?

「お金に苦労しませんように」――これは・・・・・

「宝くじが当たりますように」――これは・・・・・



同じ結果を想定していても、結果に至るまでの段階で、祈っているのかねだっているのか、

そこのところはとても微妙だ。

おねだりは、エゴということは、「我」だから、自分のことだけを考えていては、

神様は話を聞いてくれないということ・・・・・なのだろう?

ちょっと前に、「我が、我がという時代じゃない」と書いたばかりだから、

きっとそうだろうということで、今日のところは、ヨシとしておこう。


鼻の下が痛痒くなってきたので、もうアウトするm(_ _)m









「社長~! 早くよくなるように祈っています!!」
「あ、り、が、と、う・・・・・。それは純粋な祈りだよな(うるうる)」
「早くよくなって、飲みに連れて行ってください!」
「だっからよ~! そのひと言さえなければ・・・・・」






参考:『神のささやき』迫 登茂子著


2014/04/02   それは自己主張ではない

駅から自転車で10分~15分かけて帰る。


夜、何台もの自転車とすれ違うのだが、ライトを点けているのは、そのうち半分もない。

目がそれほどいいわけではないので、街灯がないところでは近くに来るまで気付かず

突然目の前に現れたように思えて、肝を冷やす。


みんな、見えているのだろうか・・・・・。



自分の自転車に付けているのは、取り外しが簡単にできるハンディ型のライト。

昔のように、タイヤに発電機を擦りつけて灯すライトとはタイプが違い、

どちらかというと、道路を照らすというよりも、「私、ここにいますよ」と

自分以外の相手に伝えるためのものだと認識している。



ファッションは自己主張ではない。

「礼儀」である。

と言った人がいた。

相手への気遣い、相手を尊重する気持ちをもったとき、

どのような服装をするか、おのずと決まってくるものなのだと。



ある一面、その通りだと思う。

夜、暗がりの中を自転車で走っているときに、そのことを思い出していた。



常に自分が中心にいて、自分を主張することがまず第一。

相手は、自分に合わせればいい・・・・・。

それは、自己主張ではない。




小さいとき、自分の意見をもって、しっかり発言するようにと言われた。

大人になっても、自分の意見を言えないヤツは、できないヤツと思われた。

「自己責任で~」というのは流行り言葉だ。



「我が、我が」という時代ではもうない。

我ありて、他者あり。

他者ありて、我あり。

自分と他人の両方があって世界が成り立つという考え。



自己主張と自己中心の違いを、きっちり整理しなければならない。


人を遠ざけてしまう「自己主張」もあるのだから。











「社長~っ!」

「な、なんだ!? ライト点けたヘルメット被って」

「いやだから、常にボクはここにいますよというアピールですよ!」

「だっからよ~!!! 君には相手を尊重するという・・・・・はぁ~~」
 





2014/03/25   「言葉」のこと ―続―

つい数日前に書いたことを、さっそく自己否定してしまうのだ。


書いたことは ↓ コレ。


人は考えるときに、「言葉」を使って考える。
「言葉」は、考えるための道具だということができる。


というもの。

考えるときに、「言葉」だけを使っているのではないような気がしてきた。



思考する際、確かに「言葉」使っている。

しかし、「言葉」はひとつの要素で、もっと別のものも含めて思考は行われている。



例えば、数学者が数式を考えるとき、数字は「言葉」と置きかえられるかもしれないが、

数字の組合せや展開は、数字だけでは表せないものだ思う。



アインシュタインは、頭の中にイメージが浮かび、

それをいろいろと組み合わせたり操作したりして、

最終的には数式というカタチで出力していたという。


浮かんできたイメージを、ひっくり返したり、裏返したり、分解したり、統合したり、

変形させたり、化学反応起こさせたり・・・・・。


もともと思考は自由なものだから、「言葉」にとらわれすぎる必要はないよね。

「言葉」を生業としていると、「言葉」にこだわをもちすぎてしまう。


「言葉」は、使い方によっては本質を飾り立て、本質を見えなくしてしまう危険性も

はらんでいることは忘れずにおこう。



言いたかったのは、「言葉」は大切だよ!

ということだったんだけどね。



思考の自由さも大切だよ!!






2014/03/21   判断するということ

人は、さまざまなシチュエーションにおいて、常にものごとを判断しながら生きている。

では、判断するとき、何を基準としているのだろう。



経営者が、「会社と従業員の利益を最優先に考える」と言うことに対して、
それは違うという人は少ないだろう。

しかし、どうも、そういうことじゃないような気もするのだ。
(迷う経営者、悩む経営者・・・・・)



思想家、哲学者の言葉から。

「損得を考えているから、何が正しいか分からなくなる」

何が喜ばしいかを基準にせよ。

自分にとってではなく、多くの人にとって喜ばしいことを。






「プラスかマイナスかという価値判断基準を捨てよ」

健康はプラス、病気はマイナス

合格はプラス、不合格はマイナス

お金がたくさんあるはプラス、お金がないはマイナス

地位が高いのはプラス、低いのはマイナス

生存はプラス、死はマイナス

安楽はプラス、苦労はマイナス・・・・・

こういった価値観や考えをもっている限り、それらの基準に照らし合わせて
自分はプラスの状態か、マイナスの状態かを判断してしまう。

周りの価値観にあわせることは悪いことではないが、
物質的な観点のみになってしまうと、物質的な成功こそがプラスとして
意味や価値をもつことになってしまう。




成功している企業には、金儲けだけでないコンセプトがあるとよくいわれる。

何をもって成功なのか、その判断基準が、物質的なこと以外にもあるということなのだろう。

人の人生の最終目的は何なのか・・・・・。




「人生をつまらなくするのは簡単だ。結果や報酬を目的として生きればいい」

物質や金銭は、人が利用するものであって、それ自体には価値はない。

価値になり得るのは、心や精神に触れるものだ、と思想家は言う。





「価値」というのは、あらかじめ決められて、そこにあるのではない。

何かに「価値」を与えるのは、常に自分自身である。



人生において、あらかじめ用意された「正解」は、どこにもない。

意味を備えたものがあるのではなく、自分自身が関わったときに初めて意味をなすのだ。



さらに、あらかじめ固定された「自己」はない。

何かに成ろうとし続ける、その継続によって「自己」ができるのだ。


人は何にでもなれる。

何でも自由にできる。

可能性は大きく開かれている。

性格は、固定されたものではない。

だから、周りの意見や占いなどによって、自分の可能性を狭くしない方がいい。





では、会社で、この事業体で何をやっていくのか。


こんな言葉にも出会った。

「仕事」そのものには意味はない。

「仕事」は、道具にすぎない。

「仕事」は、自分を表現する道具でしかない。

「仕事」をすることを通じて、自分自身が意味をもつ。

どのような「仕事」であっても、本質は世の理を表現すること。





何が正解なのか、それは時間が証明するのだろうか。

あの時、こうしておけば良かったとか、

あの時、こうしたから今があるとか。


本質的なことを見極めるには、

時間と空間を俯瞰して全体を見渡せる視点を

もたなければいけない。




そっか・・・・・

to be continued








「社長~っ!」
「なにかな?」
「全体を俯瞰して見る目をもてと教えてもらいましたが、時間も超越するんですか?」
「そうだね・・・・・無記!」
「あ~っ! また、都合の悪いことになるとすぐ"無記"だ!!」
「だっからよ~! ・・・・・確かに都合いいな」







参考:白取春彦著『頭がよくなる思考術』
白取春彦著『頭がよくなる逆転の思考術』
飯田史彦著『完全版 生きがいの創造』





2014/03/18   自ら閉じてしまっている未来と可能性

最近、不快なニュースが多すぎだ。

特に違和感を覚えたのが、STAP細胞のこと。
TVでちょっと見ただけだから、詳細・真実はよくわからないが、
同じ職場の上司、本来だったら守らなければならない組織の中の人間を、公の場で否定する、あの感覚は何なんだろうか。
正義感を振り回しているのだろうか。
それとも何かを隠そうとしているのか。

メディアの取り上げ方も同様。
ニュースがまるでバラエティ番組のようで、こちらにも違和感を覚える。



真実は、わからない。
発表当初から、従来の薬剤関係企業や古参の研究者たちがが黙っていないだろうとか、無責任な声が聞こえていたが、今となっては案の定・・・・・なのか、どうなのか。

場外の意見の中には、発表するメリットって何かあったの? というものもある。
明らかなウソをついてまで表に出る理由が何かあったのだろうか。

そんなことだけじゃない。
科学って、世の中のシステムって、それでいいんだっけ?
ネット上で批判している人たちのコメント読んでいて、あれっそうなのみんな・・・・・とも思ってしまう。






以前、仏教の教えで、「無記」について記したことがある。
コレ↓ とコレ↓↓

あるのかどうかわからないものに対して、ある、ないと決めてしまうと、知の体系が閉じてしまう。だから、真実なのかわからないことに対しては、決めつけない「無記」の状態で考え続けなければならないという。



かつて、ガリレオ・ガリレイは「地動説」を指示し、宗教裁判にかけられた。
今は誰も、天動説を信じる人はいない。

科学の実験というのは、1000の事象の中にある、ひとつの真実を探すものなのだと思っている。999の不確定要素が、"違う"とわかることにも意味があるのだ。
だって、違うとわかったら、もうその実験はやらなくていいわけだから。




「認めるだけの決定的な証拠が今はないが、否定できる証拠もない」
という状況の時に、否定論者とそうでない者の辿る道は決まっている。

否定論者は、どんなに頑張っても現状維持か、あるいは何も見つからない道しかない。
否定論者でない者にあるのは、どちらかわからないままの現状維持か、新しいものが見つかる可能性だ。

否定してしまった時点で、未来は閉ざされる。
部下を否定した人たちは、真実かもしれないその可能性をも否定したのだ。
それが、自分たちの未来を閉ざしてしまったことにもなるのではないか。

何が悲しいって、真実か真実でないかという議論ではないところで否定されていることなのだ。




この世の中は、どんな理論で動いているのだろう。
母なる地球の大いなる意志なのか、神々の慈悲あふれる意志なのか、
国益なのか、経済理論なのか・・・・・。

TVゲームというのは、そのゲームの世界の中で自由に動き回っているような気にさせるけど、実は人が設定した中でしか動いていないのだとか言っていたけど、今の現実のこの世界だって、もしかしたら人間がつくった社会・経済という枠組みの中でしか、動けていないのかもしれない。


人がつくった枠組み、社会や経済のシステムから飛び出してしまうとどうなるのだろう。
そこに、未来につながる何かが見つかるかもしれないのかなあ・・・・・。

「見えないものに一目置くセンス」は大切だ。






科学者だけではない、
政治家、音楽家、電力会社、国営放送局・・・・・
「んんん、だっっっからよ~!」






2014/03/14   「言葉」を知らないとどうなるか

「人は考える葦である」と言ったのは、フランスの哲学者で思想家のパスカル。

なぜ「葦」だったのか・・・・・。
強い風にすぐしなってしまうけど、風が止めば何ごともなかったように
元の姿に戻る姿を人間に例えたとか、
自然の中で矮小な生き物にすぎないことを例えたとか、
群生して生息している葦を例えたとか、
そういうことのようだが、
そんな「葦」にすぎないけれど、人は考えることができるのだ!
考えることで「宇宙を超える・・・・・」可能性があるのだ!!
ということ。




人は考えるときに、「言葉」を使って考える。
「言葉」は、考えるための道具だということができる。

「言葉」は、意思伝達にも必要な道具であり、知識を得るためにも必要だ。


「言葉」を知らなければ、読んだことや聞いたことを正しく理解できない。
言葉の意味するところを理解できないということは、
世の中を理解できないということ、
相手を理解できないということになる。



進歩、成長の第一歩は、新しい言葉を知ることといわれる。
今まで知らなかった言葉を知ると、頭の中はクリアーになり、
こんがらかっていた考えはスッキリする。
今までにない価値観を得ることによって、より複雑なことの理解が深まる。

新しい言葉を知るにはどうしたらいいか。
本を読む。
正しい言葉を使う人と話をする。
「本を読め!」と多くの人がいうには理由がある。



「読書の醍醐味は、漠然としつつも上手く言葉にできないことが、本の中で的確な表現で言語化されていく様子に触れる瞬間にある」といったのは、脳科学者の池谷裕二さん。

読書もそうだが、文章を書くことも似ている。
漠然と世に散らばっている知識を的確な表現で言語化して形を整え文章化することで、知恵としてまとめ上げることができた瞬間にびを感じる(要長文整理!)。
さらにそれを、他者に伝えることができるのだから、読書にもまして醍醐味があるといってもいいかもしれない。



正しく言葉を理解しているか、
正しく言葉を使えているか、
新しい言葉を知ろうとしているか、
それらの言葉を使って考えているか・・・・・

言葉を知らず、使い方もわからないなために、ヘンな日本語を使う日本人が増えている。

正しいか間違っているか自信がないから、あいまいな表現になる。
「~みたいな」とか、「○○な感じ」とか、「よかったと思います」とか・・・・・。

尊敬語とか謙譲語とかわからないから、とりあえずへりくだっておく。
「△△させていただきます」とか、誰にでも何にでも「様」を付けるとか・・・・・



すてきな言葉遣いのできる大人になりたい!







「社長~っ!
 本日締め切りの企画書は昨日、提出をさせていただいてございます。
 また一昨日、お会いをさせていただきましたクライアント様におきましては・・・・・」
「だっからよ~!」





参考:ウィキペディア『ブレーズ・パスカル』
『頭がよくなる思考術』白取春彦著
『カネを積まれても使いたくない日本語』内舘牧子著

2014/03/11   企画を考えるということ

社会人になってすぐ先輩に言われたことだったか、何かの本で読んだことだったか、企画の考え方のひとつの方法として知ったこと。それは、こんなやり方だった。

「まず勘違いをしてはいけないのは、世の中にないまったく新しいことやモノを生みだそうとしないこと。そんなものが生まれるのは本当に稀なことだから。ひとつの方法としてあるのは、意外な組み合わで、新しい価値を生みだすというやり方。今までにすでにあるものでも、普通そうは合わさないだろうという組合せをすることで、今までにないものができることがある」
―――モンスター同士を合成してキメラを生みだす方法と同じだ(パズドラのモンスター合成は同じ属性を組み合わせるとランクアップするようだけど、違った属性をあわせることで意外なものを生みだすというもの・・・・・でいいのか???)

組み合わせる元ネタは、たくさんあったほうがいいのは当然だ。
ものを生みだす人たち、クリエイターとよばれる人たちが、幅広い「知識」をもっているのはそういうこと。
―――さまざまな種類のモンスターをもっていたほうが、特別なキメラが生まれやすい(・・・・・もういいか)



知識は、興味の連続によって得られる。
もっと知りたいという興味が、さらに多くの知識をよぶ。
そして、知識同士が化学反応を起こして、知恵としてカタチとなる。
知識の深さや広さがあればあるほど、知恵の種類も豊富になる。

知識を増やせば増やすほど、世界はどんどん新しい意味をもって見えてくる。
知恵は増えれば増えるほど、世界に新しい価値観を提供することが可能になる。




人は、考えるためには、頭を働かさなければならない。
一般的に、頭を働かせるためには、体を動かし、知覚を刺激する必要がある。
デスクに座って考え続けることには限界がある。
よく言われる、散歩中にアイデアが閃くというのは、こういう理由からだ。
常に変化する環境に身をさらすことによって起きる刺激で、頭は活性化する。


毎日決まった日常から逸脱し、非日常的な行動を起こすことも大きな刺激となる。
自分で勝手に縛ってしまっている「習慣」から離れ、
時間や費用や行動などを制限する「効率」からも開放されると、
抑圧されていない本来の「創造性」が発揮されやすくなる。
「旅」はこの非日常の代表かもしれない。

非日常、脱日常のススメ!
発想を自由に遊ばせることや発想の転換は、教えてもらって身につくものではない。
さまざまな体験を自らすることで、ようやくそのやり方の端っこが見えてくる。

とはいうものの、周囲や組織とのバランスだけは気をつけたほうがいい!




最近おもしろい考えを知った。
「モノのカタチを変えるだけで、可能性が多いに広がる。不可能が可能になる」というもの。
例を挙げたほうがわかりやすい。
「一枚の紙を飛ばすことは不可能だが、紙飛行機のカタチにすれば、空を飛ばすことができる」
こんな感じ。

「モノ」を別の言葉にかえてもいい。



一枚の紙を、折ったり、切ったり、丸めたり、ちぎったり、継ぎ足したり、燃やしたり・・・・・。
それを自由に考え、試行錯誤し、実行する。
まったく、ワクワクしておもしろい作業だ。










「社長~っ!」
「なんだ!! その金髪、モヒカン、鼻ピアス・・・・・!!!???」
「自分のカタチを変えることで不可能が可能になるかと思って ^-^ 」
「だっからよ~! キミの場合、違う世界に行ったほうがいいかもな」
「え~っ、社長の教えを守ったつもりが・・・・・(゜Д゜) 」




参考:『頭がよくなる思考術』白取春彦著







2014/03/07   心配しないで

朝、出がけに母親から、「今日は雨が降るんじゃない? 傘を持っていかないと濡れるわよ!? バス乗れないかもね・・・・・」そんな声をかけられた経験がある。
親は子供のあれこれを「心配」して声をかける。


学生になり、「明日の試験大丈夫かなあ・・・・・」「彼女とうまくいくかなあ・・・・・」とか、
大人になり、「今進めているプロジェクト成功するかなあ・・・・・」とか、
自分が親になり、「子供の将来は大丈夫かなあ・・・・・」などなど、
心配事は尽きることがない。


しかし!
今自分は、あらゆることに「心配」をしたくないと思っている。
自分の将来も、会社の経営も、世の中のことも、すべての未来も・・・・・。
なぜかというと、「心配」の中身は悪いこと、不吉なことばかりだと気づいたからだ。

起こっていない悪いことを想像して、しかもそうなるだろうと決めつけているのが「心配」の正体ではないか!



なぜ心配をするかというと、それは相手のこと、あるいは自分のことを信用していないから。
信用していれば、失敗すること、悪い状況になることを前提にはしないはずだ。
「あなたのことを心配している」「自分の将来が心配」
それは、
「あなたは必ず失敗する」「自分は絶対ダメになる」と言っているのと変わりがない。


「不吉なことは口にするな」とよく言われるが、
そのまさに不吉なことを、相手や自分に投げかけているのが、「心配」なのだ。

さらに心配する人は、あとで必ず言う、
「ほろ、やっぱり心配した通りだ」
悪い結果や不吉な出来事を楽しんでいるかのようにしか聞こえない。



心配することが悪いことだと教えてもらったことがない。
親からは、普通に、そして当たり前に「心配」されてきた。
親だって、子供を心配するのは、親の義務や役目だと思っているところもある。

しかし、よく言うじゃないですか、
「まだ来ていない未来を必要以上に案じたり、過ぎ去ってしまった過去にとらわれすぎてはいけない」って。

だから、これからは「心配」することをやめようかと思う。
「あなたのことが心配だから」、そういう人にも、
「大丈夫、心配しないで」と言って、少しずつ後ずさりしていこうかと思う。

だって、不吉な言葉を浴びせられたくないじゃないですか!







「社長~っ!」
  ズリズリ・・・・・。
「後ずさりしながら、何しているんだ?」
「もう自分のことが心配で心配で。
 心配性の自分から少しでも離れようかと思って・・・・・、でもなかなか」
  ズリズリズリ・・・・・
「ずっとやっていれば!?」


「え~っ、社長! 今回「だっからよ~!」はなしですか?」





参考:『頭がよくなる思考術』白取春彦著




2013/09/28   昨日の夜の事務所での会話

19時を過ぎたあたりだったろうか、スタッフのモモが、先輩スタッフにいきなり質問をした。
「宇宙ってどうなっていると思います?」

前日、仕事帰りに近所の「いせや」(http://www.iseya-kichijoji.jp/で焼き鳥を食べながら、宇宙ってどうなっているのかとか、UFOを見たことあるかとか、エネルギーがどうのこうのとか、話をしていた(そんな話題ばかりだったので、周りの人たちはヘンな人たちと思ったかもしれない)。
その延長で、いせやにいなかった先輩への質問だったようだ。

モモの宇宙観は、太陽や地球が収まっている四角い水槽があって、それを上から見ている存在があり、さらにその下に公務員的な働きをする人がいて、その存在がモモの人生などを決めているのだという。

オレは、宇宙は爆発的にまだ広がっているから果てはないと思うというと、モモは宇宙の果てまで行こうと思って手を伸ばしたら、コツンとぶつかったようだ。だから、四角い水槽なんだという。
そうか、ルフィのようにグングンと腕が伸びるんだ。うらやましい。

それから、時間の話になった。
時間は、今から未来に向かって流れるものなのか?

反対に、未来から現在へ、そして過去に向かって進んでいるのではないかという意見。
今といっしょに未来も過去も同等に存在しているのかもしれないという意見。
結論なんて出るもんじゃないが、そんな会話をしていた。シラフで。
そして、モモがひと言。
「こんな話ができるカレシがいいな」
モモは現在フリーのよう。
モモとこんな話をしてみたい人、連絡ください!




最近、「刹那(せつな)」が時間を表す言葉であることを知った。
仏教において、時間の概念の中の最小単位が刹那である。

120刹那=1怛刹那(たせつな)
60怛刹那=1臘縛(ろうばく)
30臘縛=1牟呼栗多(むこりった)
30牟呼栗多=1昼夜
つまり、24時間=30牟呼栗多=900(30×30)臘縛=54,000(900×60)怛刹那=6,480,000(54,000×120)刹那 ということになり、1刹那=1/75秒 となる。

この1刹那の中に、「生」と「滅」があるというのが仏教の教えだ。
わずか1/75秒の間に、発生と消滅が繰り返されているという。

   1/75秒って、0.0133秒だ。
   水泳でタッチの差で、とよくいうが、
   100m平泳ぎの北島康介の自己ベストが58秒90で計算すると、
   1刹那で約17mm。指の関節一本分くらいか。
――横道にそれた。


1刹那に生滅が起こり、その一瞬の生滅の存在が因となり、次の一瞬の生滅を生じさせる。
次に生まれたものは、前の存在とまったく同じあることはない。
1刹那に行われる生滅は「刹那無常」という。刹那無常が繰り返され、やがて、人が死んだり、植物が枯れたりする生滅は「相続無常」だ。

人は1刹那ごとに変化している。
一瞬前の自分は今の自分と異なっているし、一瞬先の自分は今の自分とは異なっている。
精神も変化している。常に同じ状態であり続けることはない。
肉体は、7年もすれば細胞すべてが入れ替わる。

すべての現象は、常に生滅変化を続け、瞬時といえどもとどまるところはないのだ。
そう、諸行無常。

はずかしい話をひとつ。
以前、「無常」を「無情」と混同していて、「諸行無常」を「諸行無情」だと思い込んでいた。
世の中のあらゆることは、情けのないことばかり・・・・・。
世間を斜めから見ていたころのこと。うう、穴があったら入りたい。


永久不滅のものはない。
同じところにとどまり続けるものはなく、万物はすべて変化を続ける。

変化を続けることをまったく厭わない。むしろ、どんどん変化をし続けたいほど。
やっと「諸行無常」の意味が少しは分かってきた(遅い? いいのいいの!)







「社長~!ボクにとって「刹那」はとても大切なものなんです!!」
「ほ~っ。キミも「刹那」の意味を知っていたのか?」
「はい。 ♪ きっと僕らは輝きたくて、生きる意味を探してた~♪」
「・・・・・」
「悲しいときは枯れるまで泣き うれしいときは腹かかえて笑い♪」
「だっからよ~!  それは、Greeeenの「刹那」でしょ!」


参考:『仏教から生まれた意外な日本語』千葉公慈著


2013/08/12   言葉をおろそかにすると......

言葉をおろそかにして育った人は、特に"他者視点"が弱いという。

「子供のころから社会の中で人と会話をすることが少なく、言語活動の訓練ができていないと、脳は充分に成熟できない。すると、他者との関係性をよく理解できずに、自分の立場ばかりを主張し、自己中心的な方向に行きがちになってしまう」
だから、「他者視点でものが見られない人が多くなると、争いごとが増える」のだそうだ。


人類は言葉をもったことにより進化してきた。
言葉で考え、言葉で伝え、言葉でコミュニケーションをとり......脳は発達した。
そして、言葉を得たことにより"他者視点"でものごとを見る能力を身につけ、「有限」「無限」を知ることになった。
動物たち、例えばサルやゾウ、ライオンは、自分の命の有限さを理解していない。
宇宙の無限さを想像することもしていない。
たぶんだけど。
人は、命の有限さを知ったことで、宗教や哲学、医学や科学を生みだし進化させた。
さらに、地球資源の有限さを知ったことで、......奪い合いが起きた。
"他者視点"をもったことで、争いごとは増えてしまった。




人は言葉を得ることで、脳を大きくしてきた。
しかしこのところ、脳は肥大化してしまい、脳の「理」の部分は暴走を続けているといわれている。
遺伝子は、長い時間をかけて人を環境に適応させたのに、脳はその環境を壊しはじめているのだ。

「理」の暴走は、一向に止まる気配を見せない。
それは、社会制度を作る立場の人が人間特性を理解せずに、人の本質に反するイデオロギーや社会をかえって悪くする理屈を作り上げているのにも一因があるともいわれる。
暴走がこのまま続くと、脳の動物的な本能の調整機能が弱くなってしまい、脳自らが長い時間をかけて自死してしまう懸念もあるという。それは脳が、自ら死を選んでしまうことが一番楽だと判断しかねないとも限らないからだ。

暴走を抑制するには、「情」の部分の働きを高めることが必要とされるが、情動や感情、動物的な本能といった「情」の部分だけに配慮すれば何とかなるという単純なものではなくなってしまっている。



では、何をもってすれば脳の暴走はおさまり、人は争いごとをやめるのか。

"他者視点"が人間だけの特別なものであるならば、その定義をアップグレードすることがひとつの答えになるかもしれない。
自己→自己+他者→社会→地球
"他者"の定義が大きくなればなるだけ、おのずと"他者視点"も変わってくる。
地球規模の"他者視点"がもてたとすれば、そこには新たな可能性が生まれる。
脳はもともと自己を守るために機能する。
だから、脳の自己の定義を広げ、さらに"他者視点"を思い切り広げることができれば、きっと脳は自ら最良の方法を導き出すはずだ。
そのときがくれば、今まで人がもっていた"他者視点"も意味が変わり、大きな意味での"未来視点"になると信じる。



"他者視点"の定義を変えるには、「言葉」の役割が非常に重要になってくる。
言葉自体がアップグレードするのか、言葉にまつわる環境や状況が変わるのか、言葉に何かプラスαの力が備わるのか、あるいはそういったことが複数同時に起きるのか......。
さまざまな可能性が考えられるが、「言葉を大切にすることが、未来を開くきっかけになる」のは間違いがない。
言葉に関わる仕事に携わる身としては、言葉の潜在的な可能性をもっと引き出し、大きく育て上げなければならないと思う。

言葉一つひとつ、魂を込め、ていねいに、発し、書き、伝えていこう







「社長~! これから特に気をつけて「言葉」を大切にしていきたいと思います」
「そうだな。昔から、言霊といわれるように、言葉には魂が込められているといわれているからな」
「よーし! 超やる気なってきた!! マジがんばるっス!!!」
「......だっからよ~!」





参考:『和解する脳』池谷裕二×鈴木仁志 共著


2013/07/24   奇跡のリンゴの「自然栽培」から考えたこと

前回に続き、奇跡のリンゴの木村秋則さんの関連本を何冊か読んで気づいたことがある。
農業は、ある時期に工業化されていたということだ。

以前、「神の時代から、科学の時代へ、そして・・・・・」
で、産業革命によっておきた科学・テクノロジーは、巨大化・複雑化し、人知を越えてコントロールできない存在になってしまったと書いた。
実は、農業に関しても同様のことが起きていたのだ。

「緑の革命」は、1950年代を中心に起きたもので、穀物の大量増産を達成した。
それを実現したのは、次の技術からだった。
・化学肥料の発明・製造
・品種の改良
・農薬の開発
・農地の整備
人が自然をコントロールしようとしたのは、科学技術と同様だった。


「緑の革命」が進む一方で、1962年アメリカの自然科学者レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版。DDTなど、毒性と残留性の強い農薬による危険性を訴えた。
生物が毒素の強い化学物質を取り込み、その生物は上位の生物に食べられ、食べた生物は体内の化学物質が濃縮され、さらにそれを食べた、生態系の上位にいる鳥は最後に死に至る。
いつか鳥の鳴かない春を迎える......というものだった。


もちろん、生態系の最上位にいるのは、人間である。




前にも書いたが、奇跡のリンゴの木村秋則さんの農法は「自然栽培」といわれる。
「自然栽培」というのは、生物の力を利用するものである。
生物の力というのは、
○土壌にいる微生物(肥料の代わりに地力を高める)
○生物間の相互作用ネットワーク(殺虫剤の代わりに害虫を防除する)
○植物免疫(殺菌剤の代わりに病気をおさえる)
である。
それぞれの力を発揮させることができたから、無農薬・無肥料で奇跡のリンゴを栽培することができたのである。


どうやって、それぞれの力を存分に発揮させることができたのだ?




生物学に「ガウゼの法則」というのがある。
ロシアの生態学者ゲオルギー・ガウゼが行ったゾウリムシの実験で、
2種のゾウリムシを飼育槽で混合して飼うと、充分なエサがあっても、競争に強いゾウリムシが弱いほうを絶滅させてしまうというもの。
「競争排除」といわれるのだが、
例えば、飼育槽の中に石を置くなどして環境を複雑にすると、競争排除は起こらず、2種のゾウリムシは共存するようになるという。
実際の自然環境というのは、均一な状態というのはあり得ず、複雑なものである。
生物は、その複雑な環境ごとに、それぞれの環境に特化するように進化し、棲み分けている。
それが現実である。


競争は、勝者と敗者をつくる。
それは、格差社会をつくることである。
しかし、人間社会においては活性化する力となる、ともいえる。
競争は、勝者が敗者を排除するものではなく、多様な環境の中にそれぞれの居場所をつくり出すためのプロセスのひとつだと考えられるからだ。

人の社会には、多様な価値観があり、さまざまな職業がある。
その社会においての競争は、格差をつくるためのプロセスではなく、個人のアイデンティティを確立するためのプロセスであるのだ。
本来は。



今、世の中、さらなる技術革新により、
社会を多様性の高い環境から、均一な環境に変化させつつある。
高度な機械技術は、それまで職人技であったものを、誰でもできる単純労働にかえた。
インターネットは、価値観を共有することで、グローバル化という世界レベルの知の均一を促進している。


環境が均一化され、そこに競争が組み合わさると、どうなるか。
「競争排除」が起き、敗者は絶滅する......。




人は常に自らが勝者になると信じているのだろうか。
運動会では競争させないから大丈夫とでもいうのだろうか。




「自然栽培」の中には、大いなるヒントがある。
「生物間相互ネットワーク」であり、「免疫」であり、「微生物」である。
これらのキーワードには、さまざまなことを考えさせられる。


例えば、
生物間ネットワークは、生物の多様性の低いところではできないという。

「多様性」は英語でいうと、
Diversity(ダイバーシティ)=表面的にバラバラだが、有機的に繋がりがある状態
Variety(バラエティ)=バラバラでランダムな、有機的な繋がりのない拡散的状態

ダイバーシティな環境は、どこにある? どうやれば作れる?









「しゃ、社長~! 奇跡のリンゴが食べたいなんて言っている場合じゃないじゃないですか?」
「いや、奇跡のリンゴは確かにうまいゾ!」
「あの~、そういうことじゃなくて......。何かを修正しなければいけないのじゃないでしょうか?」
「だっからよ~! いつやる?」
「今でしょ! って......。社長~!!」





参考:『すごい畑のすごい土』杉山修一 著
『和解する脳』池谷裕二×鈴木仁志 共著

2013/07/17   「奇跡のリンゴ」から考える

奇跡のリンゴの木村さんが、また注目を集めている。
ちょうど、映画が公開され、あわせて関連本も数多く出版されているからか。

たくさんのエピソードがある中から、気になったことをひとつ。


人は、木につく虫を退治するために、そして生えてくる雑草を駆除するために農薬を使う。
さらに、木を育て、栄養を補うために肥料を与える。
当たり前のこととして。

木村さんの奥さんは、ひどい農薬アレルギーだった。
そんなこともあり、農薬を使わず、化学肥料も使わない「自然栽培」を目指した。
何年にも渡る苦労の数々は、書籍や映画を見ればわかる。

自死をも考えたときに気がついたのが、土がポイントだということだった。

木村さんの畑では、虫や病気が広がらない。
それは、土の中の多くの細菌や菌類などの微生物のおかげで、大繁殖できないのではないかと木村さんは考えている。
虫は、人が土に与えた、自然ではないものを駆除しようと集まってくるのだとも思っている。

・・・・・あれ? どこかで聞いたことあるハナシ。

1984年、劇場公開された『風の谷のナウシカ』。
『アニメージュ』では、1982年から連載されていた。
30年も前のことだ・・・・・。

『風の谷のナウシカ』に登場する"腐海"は、汚れきった大気と土地を浄化するために存在し、菌と蟲を生みだした。
腐海の下は、空気も土も浄化されキレイだった。



そもそも、木や植物につく虫を、"害虫"といったのは、人だ。
木村さんは、リンゴの木につく虫を、何匹も何匹も手で取りながら、その顔を見たら
"可愛い顔をしていた"という。
人が"害虫"といっているものは草食系で、"益虫"とよんでいるものは肉食系だ。
"益虫"は、凶暴な顔をしていた。

生態系とは生命全体の働きのことで、全体が繋がりひとつの命を形成している。
ごく一部を切り取って、正義の味方か、悪の手先か、決められるのか?

虫が大発生するには理由があると、虫に教えられたと木村さんはいう。
元気な木に虫がつき病気になり、木が弱ったのか、
木が弱ったことによって、虫がつき病気になったのか・・・・・。
大切なのは、大発生した原因を突き止めることだ。


似たような例はたくさんある。
腸内にいる、善玉菌は"善"で、悪玉菌は"悪"であるという構図。
悪玉菌が生まれる理由に大切なポイントがあるかもしれないのに、
人は、悪玉菌を排除し、善玉菌を増やすことにばかり目が行ってしまう。


木村さんの農法は、「自然農法」ではなく、「自然栽培」だ。
自然に任せてまったく何もしないというのではなく、できる限りのことを積極的に行う。
畑に木を植えたのは人間だから、生態系のもっているバランス能力を生かすために、人が手を加え、仲立ちになるという考えだ。
手をかけた木村さんのりんごの木たちには、自分の力で病気を治してしまう、ある種の免疫力があるという。



農業や畜産の文化から、工業文化への近代化において、人は自然を支配しはじめた。
人間中心主義である。
ニーチェは「神は死んだ」といい、超人を生みだした。
"人間が絶対意志によって自然を支配する"凶暴な時代になった。
別の哲学者は、凶暴な意志が支配する世界は、乏しき世界であるといい、
やがて、長い間忘れられていた「存在」への回帰が起こるといった。

はたして、間に合うのだろうか。


世界では、木村さんのような人が出てきている。
木村さんが起こした"奇跡"は、本来のあるべき姿なのではないか。
人が自然に関与する仕方は間違っていないのか。
身の回りにおきているさまざまな出来事が、時代の変わり目を告げているような気がする。
以前に書いたことが、ドロリと残る澱のように解消されないままだ・・・・・。




「社長~! なんだか、木村さんの・・・・・リンゴが食べたくなってきました!!」
「えっえ~! そっちか?」
「いや、冗談です。 何か変わらなければいけませんね!」
「だっからよ~! きっかけのひとつとして事務所を移転しようかと思う(キッパリ!)」
「突然、告知ですか~?」
「そう! 8月上旬に事務所移転します! 詳細はまた後日!!」






参考:『土の学校』木村秋則・石川拓治著
『木村さんのリンゴ』小原田泰久著
『すべては宇宙の采配』木村秋則著
『人類哲学序論』梅原 猛著


2013/06/08   アヒル口もいいけれど

割りばしを口にくわえると口角が上がり、笑ったような表情になって、気持ちも楽しくなる。
実際、横にくわえてマンガを読んだときと、縦にくわえて読んだときでは(端のほうをくわえるとこになり、落とすまいと力が入り、口はへの字になる)、横にくわえたほうがマンガを楽しく感じるという。

身体に生じた変化に脳が反応して情動が生じること、これを抹消起源といい、
反対に、情動がはじめにあり、それを脳が解釈して身体が反応することを中枢起源という。

"箸をくわえて"というのは、抹消起源説のほうだが、
実際はどちらか一方だけではなく、両方が組み合わさって生じているらしい。



笑顔というのは正直なもので、
心から楽しんでいる表情や、心からの笑顔では、人をだませない

一方で、悲しみや怒りというネガティブな表情は人をだましやすい

なぜかというと、ネガティブな感情は、生存に関わってくる恐れがあるからだ。
命に関わるから、少しくらい間違っていても敏感に反応しておく。
その点、笑顔は人の生き死にに直接的には関わらない。

悲しみや怒りは演じやすいが、心から笑うことは演じにくい。
どうなんでしょう、役者の皆さん?

確かに、作り笑いは見破られやすいですよね。



感情というのは、
自分が思っている以上に、相手のほうがよくわかっている
ということが実際に分かっているらしい。
自分が今どのような情動状態なのかを、自分で判断するよりも、相手があなたの情動状態を予測しているほうが、より正確なのだという。

身に覚えがたくさんある。
つらいことや悲しいことがあって、あるいは怒りがあって、それを人に知られたくないから必死で感情を抑えようとしているのに、事務所に来た途端にばれてしまうとか・・・・・。

仕方がないと諦めよう。
相手は、自分よりも自分の感情をよく知っているのだから。
声や表情で相手をあざむこうと思っても、あざむかれるのは自分のほうなのだ。


ネガティブな感情は人に知られたくないけど、楽しい気分や笑顔のもとは、人にも伝えたい。
黙っていても自分が思っている以上に伝わるのだから、何もしなくてもいいといえばいいのだが、笑顔って顔のパーツでいうと、どこでいちばん伝わるのか?

絵を描くことを考えたら、やはり「口」だと思うだろう。
ニッカー! と笑った口元がポイント・・・・・ではないらしい。


人が人の正確な感情情報を得るところは、「目」なのだそうだ。
どんなに口角上げても、アヒル口しても、目が笑っていなければ、
楽しい感情は伝わらない。
どころか、ちょっと恐い。

「目は口ほどにものを言う」というのは確かなのだ。



人と接するとき、男が女に会うとき、磨いておかなければならないのは「目」。
女が男に会うとき、メイクに時間をかけるべきは「目」。
口は、評価対象としてはランクが低いんだそうだ。
知っておこう!


デートでも、ビジネスでも人と会うときに キラキラした目の人は、
抜群に評価は高い。







「社長! もうつくり笑いはやめます」
「そうだな、すぐにばれるからな」
明日から、アイメイクに気を配ります」
だっからよ~!  もっと内面を磨いて輝きなさい。オトコなんだし・・・・・」




参考:『「つながり」の進化生物学』岡ノ谷一夫著



2013/05/21   「念ずれば叶う」について

PC上の中身を整理をしていると、突然むかしのメモが出てきたりする。
思いついて書いたものや、気になった言葉を書きとめたものなど、いろいろなホルダーの中から、ひょっこりと目の前に登場するといった感じだ。
整理していないといえば、その通り!
でも、抜群のタイミングで、再会する。

その中のひとつ。


「念ずれば成る」・・・・・を安易にとらえると、つならないことになる。
あらかじめ、自分で思い描ける状況というのは、たかだかしれているつまらないもの。
本当にクリエイティブな発展というのは、想像を超えてやってくる。

ただ、「念ずれば現ずる」というのは、まさにその通りで、
場合によっては、うっかり思ってしまうと、うっかり叶ってしまうということもある。

でも、今のレベルの自分が願っていることを成功として喜べるということは、
同時にそれ以上が見えなくなる世界でもある。
「小成が大成をさまたげる」こともある。
プラス思考を推薦する人は、よく考える必要がある。

野口春哉という整体協会の創始者の言葉だったかと思う。


では、どうするのかというと、
「願いごとは、願っておいて忘れること」が大事なのだそうだ。


大きな流れの中に自分がいて、その流れに身を任せるか、頑なに身を固めて流れに逆らうのか。
自分次第なのだけれど、なんだかその時々の状況や気持ちに左右されて、正しい判断ができなくなってしまうというのはよくあることだと思う。

周りには、とても幸せで裕福な流れがきているのに、気づかず、抵抗して、流れを逃してしまう。
そんなことがないように、念じて、そして忘れておこう。





「社長! ボクが昨日、強く念じたことって、なんでしたっけ?」
・・・・・だっからよ~。ずっと忘れておくのも幸せかもね、君の場合」









2013/05/11   遺伝子の働きだって変えることができる!

ある、被災地への取材の中で、被災者にはふた通りの人がいると聞いた。
会った途端に最初から文句をダダーッと言い立てる人と、
今はこんな状況で、こういったことが課題なのだけどどうしたらいいと相談してくる人だという。

以前の自分を振り返ると、間違いなく「文句を言い立てる人」だった。
若いころは、自分に、社会に、大人に――すべてのことに苛立ちを感じ、憤りを感じ、
どうにもならないもどかしさに苛まれ、口から出る言葉は、周りに対する批判ばかりだった。
反抗心を内に秘めるあの時期をどう乗り切るかによって、その先の大人としてのあり方が変わってくる。
自分は、乗り越えられなかったタイプだった。

社会人になっても、まず示す態度は"批判"だった。
会議では、反対意見をいうことが自分の存在意義だと思っていた。
人と違うことをやることが、自分らしさだと思っていた。
随分と、イヤなヤツだったはずだ。

そういう性格や態度というのは、生まれ育った環境にもよる。
自分の性格や判断だけで、好き勝手にねじ曲がるわけがない。
(今ここでは、そのことを振り返りはしないけど、あの頃の自分には、
 大丈夫、君にはそんなに責任はないんだよと、言ってあげたい......)


やっとこの歳になって、自分のことを冷静に見つめることができるようになり、
気付くことも増えてきた。
まだまだ、いい大人になれると思っているし、
もっともっと、いい男になれるはずだとも思っている。
それは、こんな文章に出会ったことがあるからかもしれない。

「遺伝子の働きは、上書きすることができる」
「人間の性格は、その気になればいくらでも変えることができる」


遺伝子のことが随分とわかってきて、二重らせん構造やら遺伝子自体が解明されたりと、そこに自分のすべての情報が書き込まれていて、それに支配されているような気になったりしていた。
遺伝子操作の食物は......どうのこうのとか、遺伝子を調べれば、かかる病気がわかるとか......、生まれてくる子のことも予測がつくとか......
進化といえば進化だ。
やっとわかり始めたことを必要以上に騒いでいるといった感じが多少はあった。

しかし、不変に受け継がれていくものといったイメージのあった遺伝子の、その内容を書き換えられるのだよ!
遺伝子は、細胞が生まれかわるごとに受け継がれていくわけだが、細胞分裂する際に、前の細胞と同じではなく、前の細胞の情報を読みつつ、少しだけ違った細胞に生まれかわる。
ではどう少しだけ変化させるかというと、同じことを何度も繰り返し経験を積み上げていくことで、その経験が書き込まれるのだという。
そして、上書きされた結果、遺伝子の働きが変わる。


人間の身体の細胞が生まれかわり続けているのと同様、脳も絶え間なく変化し続けている。それを考えると、「性格」とか「習慣」といったものも、変わらずに受け継がれるものと考える方が不自然だということができる。

脳の情報だって書き換えられることは、よく知られている。
日常の運動により身体は変わることは、誰もが知っている。

そして特に、上書きに都合がいいのが、「いい記憶」なんだそうだ。


批判的な、文句ばっかり言っていたころの自分を想像すると、「いい記憶」ってあまりなかったかもしれない......。
人間がもっとも幸せになれる方法というのは、「強いポジティビティ」だということは、科学的にはすでにわかっていることだ。
ネガティブな発想や行動からは、"幸せ"は導き出されないのだ。


成功者の多くは、
自分の仕事を、より大きな背景の中で眺め、
その仕事に対して積極的に意義と喜びを持ち込む。
自分の得意としていることに対しては、より高次元の目的をもって情熱を傾ける。

ネガティブになっている場合じゃないなあ......。





「社長! お久しぶりです!!」
「おっ、ブログスタート当初、よく登場していた......誰だっけ?」
「そんなことはいいんです。ところでボク、最近"いい記憶"しかないんです!」
「おおっ、久しぶりにもかかわらず、同じようなペースできたな。で、それはどんな記憶なんだね?」
「はい! 最近、むっちゃかわいい女性と毎晩、おいしい料理とおいしいワインをいただく、夢を見るんです!!」
「夢!?」
「はい! 起きたときには"いい記憶"しか残っていない・・・・。夢も上書きされるんですね」
「だっからよ~!」







参考:
『サラリーマンの悩みのほとんどには すでに学問的な「答え」が出ている』西内 啓著
『人は感動するたびに健康になる』南 和友著


2013/05/06   同じ地球上を構成する物質だから

人の身体は地球上にある物質でできている。
人のみならず、生き物すべて、生き物でない石ころにいたるまで、地球上にある物質でできている。
たぶん、地球外生物というのは、地球上にある物質以外のものでできているのではないかと思う。

人の身体は、約60兆の細胞でできているという。
最近では、100兆個という説もあるらしい。
この身体の細胞、2年ですべて入れ替わる(6年という説もある)。

入れ替わっても、地球上にある物質でできていることに変わりはない。
すべて入れ替わるけど、同じ形を留めているように見える。
実際は、少しずつ変化しているのだろうけど、ぱっと見はわからない。

すべての細胞が入れ替わるということは、元自分の身体だった細胞を構成する物質は、
地球上のどこかの何かになっているか、そのあたりを漂っているのではないかと思う。




目の前から、カタチあるものが消えた。
でもそれは、カタチを失っただけで、それを構成していた物質は失われたわけではない。
地球上に今も存在し、別のカタチになっているか、そのあたりを漂っている。



『千の風になって』の歌詞がすんなりと腑に落ちた

2013/04/16   脳から腸へ?

以前、花粉症で苦しんでいるときに、原因のひとつは「腸が汚れていることだ」と聞いた。
"汚れている"なんていう直接的な言い方ではなかったかもしれないが、それほどのインパクトがあった。だって、腸内フローラの対極にある自分の腸って......。ううっ~
その後、無糖ヨーグルトを毎日200~300g食べ続けた。
もう数年になるだろうか、今は花粉症で苦しむことはほとんどない。
便秘知らず、下痢知らずで、いま腸の中はお花畑になっている――はずだ。

腸は、どの臓器よりも古くからある原初的な臓器なんだそうだ。
腸しかない生き物もいる。
クラゲやイソギンチャクがそうだ。
脳はない。
しかし彼らには、食欲があり、子孫を残そうとする欲求もある。
腸そのものが思考しているのだという。

そもそも腸って、人間の身体の臓器の中で、その機能を維持するために消費する血液の量がいちばん多い。
脳がいちばん血液を消費しているように思っていたが、脳は3番目くらい。
腸が30%くらい、腎臓が20~30%、そして脳15%、骨格筋15%と続く。


「内臓は小宇宙」といったのは、三木成夫だ。
『胎児の世界』などの著書が有名な、自然科学者というか、自然哲学者というか思想家というか。
『内臓はこころ』という著がある。
内臓そのものの動きが、こころの動きとして現れるという。
そして、すぐれた言葉の形成は、豊かな内臓の感受性から生まれる――とも。


ほんの少し前、「脳」が話題となっていた。
脳科学者たちの本も随分読んだ。
いまでも読んでいる。
でも、腸科学者っていないよなあ。内臓科学者もいないよなあ。
医者は科学者とは違うし――。

三木成夫のような人物に、もっともっと語ってほしい内容ではある。
いま内臓に注目している。





2013/04/10   神の時代から、科学の時代へ、そして・・・・・

「継続は力なり」とはよくいわれることですが......。
半年も更新しないなんて、いけないですね。自己反省
いうわけで(どういうわけで?)、新月の今日、久しぶりの更新。

最近、読んだ本の中から考えたこと。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

時代が大きく変わる時というのが人類史上、何度かあったことは間違いない。
それは、グーテンベルグの印刷技術の発明だったり、産業革命であったり。

1980年頃、劇場で見た映画『ヘアー』の挿入歌「アクエリアス」では、21世紀は「アクエリアスの時代」が来るとうたわれた。
   月が第七宮に入り
   木星と火星が直列になるとき
   平和が諸々の惑星を導き
   愛が星々の舵を取るのだ
   いまアクエリアスの時代の夜明けの時

1999年、ノストラダムスの大予言は、実現することなく、21世紀へになったが......。


少し遡る。
産業革命が始まる前、
(産業革命は、18世紀から19世紀にかけて起こった社会構造の変革。
イギリスでは1760年代~1830年代にかけて漸進的に進行した/ウィキペディアより)、
1755年11月1日、ポルトガル西南部リスボンで大地震が起きた。
推定マグニチュードM8.5-9.0。

当時のリスボンの人口27万5000人のうち、最大で9万人が死亡。モロッコでは、
津波などにより1万人が死亡したとされている。
この震災によって、人の思想に大きな変化が訪れた。

それまでの"世界は神が創った最善のもの"という、神中心の世界だった。
それが、人間の理性こそが信頼できるもの"で、
"数学と科学の力で世界を理解しコントロールしていこう"という、
人間中心の世界へと変貌を遂げたのだ。

世の中の自然法則を数学や科学で把握することで、
自然を支配し、操作し、制御するという考え。

実際に、リスボン地震の後、地震学が誕生している。
地震を科学の力で制御できる方法を探るということ。

そして産業革命が起こる。
産業革命は、科学万能、テクノロジー万能の考えのもと、世界は人知を越えるものではなく、
人間の能力によってコントロールできるもの。
予知し制御できるもの、科学万能の時代となったのだった。

人は、人を高速で移動させ、
さらには人を月まで送り、
原子力で爆弾をつくり、エネルギーを取りだし、
遺伝子を組み換え、
コンピュータは個人仕様になり、
インターネットを地球全体に張り巡らせ-----

ところが、科学・テクノロジーは、人知を越えることとなる。
2011年、フクシマ
科学は、世界は、コントロールできないものへと変わってしまった。


人が生みだしたテクノロジーが、今では人の手に負えないほど、
巨大化、複雑化してしまったのだ。

巨大化、複雑化したテクノロジーは、もはや制御や予測を超えた存在になってしまったという。

津波や原発事故を、想定できなかったことに対して、
一部の人の打算的で意図的な排除の産物であるという論者がいるが、
それは、事態の真の深さをとらえていないという。
人間や科学に対する万全の信頼はもうすでに大前提とはならず、
人間がどんなに頑張っても、ダメなことがあるということを示していることに
気付かなければならない。

時代は、カオスの時代になりつつある。
カオスって・・・・・
普通、初期値と法則がわかっていれば、結果はすでに決定されているものだ。
ところが、「カオス」とは、原因と結果でいうと、原因がはっきりしていて、法則も
わかっているのに、複雑で不規則かつ不安定なふるまいがおこなわれ、
結果が予測不可能になってしまう現象のことをいうのだそうだ。

だから、フクシマは、人の努力が足りなくて起きたのではなく、
古典的な産業か社会が終焉したことの象徴的な出来事なのだという。

人が生みだしたにもかかわらず、人が制御できなくなったテクノロジーによる
破壊的な問題は、終わったわけではない・・・・・。

7~8年後には、人間の脳の容量を超えるコンピュータチップができると、
以前のブログで書いた。
巨大化するテクノロジーは、人の予想のつかないカオス状態に向かっていくのだろうか。




『今を生きるための哲学的思考』黒崎政男著
を読んで


2012/10/31   脳は脳を超えるものを生み出せるのか?

宗教家だったか、思想家だったか、
「脳は、脳以上のものを判断できないから、自らそんなものを生み出すことはない」という話を聞いたことがある。

脳は、脳以上のものに出会ったとしても、それを判断できないから、
見えない、聞こえない、触れない、理解できない・・・・・
ただなんとなく、そこにありそうな気がするんだけど、何だかわからない。
そんな状態。
例えば、身近に人が神様と呼んでいる存在が、本当はいるのだけれど、人の脳はそのとんでもない量のデータを処理できないために、いるんだかいないんだかわからないけど、いそうな気がするから、こんな存在だとしておこう、というのに似ているのかもしれない。

人にとって(人の脳にとって)、脳が判断できるもの以上のものを理解する必要があるのかというと、今生きていくために必要なものでないなら、とりあえず分からなくても、まあいいか、ということになる。
とりあえず分からないものを理解するよりも、生きていくために何をするかの方が重要なわけだ。
だから脳は、脳の処理能力を超えるものがたとえ近くにあったとしても、積極的に理解しようとはしない。そりゃ、仕方ないこと。当然といえば当然だ。


では、脳が生みだしたもの=コンピュータは、脳を超えることができないのか!?


科学者の中には、コンピュータの人工知能は、まだまだ人間の知性を超えられないという意見が多い(ようだ)。
それは、人間の"知性"による情報処理には、生きるという目的があるからだという。
たしかに、人の脳の活動は、生きるため、DNAを残すために行われている。
生命維持という目的がないコンピュータには、人間と同様の知性をもつことは難しいと・・・・・。

あれ? ちょっと待って。
ということは、コンピュータは、生命維持以外の部分では、脳を超えることができるってことじゃないのか?


技術は進歩している。
人間の脳の容量を超えるコンピュータチップができるのは、7~8年後だといわれている。
そうなると、今は人間がコンピュータのプログラミングをしているが、プログラミング自体をコンピュータがやるようになってくる。
ソフトバンクの孫正義さんは、そんな時代がくることを前提に、そうなった時に必要なインフラとは何かを考えてビジネスを展開しているという。

コンピュータが、脳の能力のある部分を超えるのは、ある意味時間の問題だといえよう。
処理速度、処理能力が人間を超えてしまうと、もしかしたら人間が判断するよりも早く、コンピュータはその情報を読み取り、他者に伝えたり、公開してしまったりするようになるかもしれない。
考えるよりも早く、相手に伝わってしまう・・・・・。
何だろう、そんな世界って。


昔書かれたSFの世界が現実になり、あっという間に過去になったりする。
脳以上のものは、脳は作り出さないという考えも、すんなりとブレイクポイントを超えてしまうかもしれない。
だって、生きていくために、脳自体が進化する必要が出てくれば、脳は自らの壁を破ろうとするかもしれないじゃないか。

進化した脳。
それは、そんなタイミングで生まれるのだ、きっと。











2012/10/09   「シンクロニシティ」について

以前、「シンクロニシティ」について、チラッと書いたことがあったが、
最近、「シンクロニシティ」について、ビビッときた文章があったので記しておく。


 「シンクロニシティ」とは、外のものと外のものがシンクロするのではなく、自分の無意識と外のものが呼応する」というもの。

例えば、一日動き回ってたくさんのものを見聞きして、その中の無意識がすごく気になったことに呼応するのが、シンクロニシティだという。
河合隼雄氏と茂木健一郎氏の『こころと脳の対話』にあった。


シンクロニシティは、同一性とか同時性と訳される。
そこには、因果的に何かと何かが同時に起こり、それが後ろで繋がっていると、多分に捉えられている。
しかし、因果関係がわかったら、こちらの意図で操作することができてしまうではないかと河合氏はいう。(お~、これは深い・・・・・。因果とは、はまた別の機会に!)
河合氏は、自身の心理療法の中では、人に対してオペレート(働きかけ)したり、マニュピレート(操作)したりすることを放棄して行っている。それが、氏の心理療法の根本だという。

何が大事になるのか(こちらの心構えとして)。
非因果性だ。

シンクロニシティには因果関係があると決めてしまうと、非因果関連を見なくなってしまう。
それでは、シンクロニシティに出てくる、自分の無意識の大事な部分を見逃すことになってしまう。
世界の裏側で繋がっているのではなく、
"そのこと"を通じて、自分の無意識が何かを察知したがっていると考えるとどうだろうか・・・・・。

「無意識こそが、生物としての自分の真の姿である」という人もいる。



内山がよくいっている、外応というのも、これに近いのかもしれないなあ。








2012/09/11   サッカーと脳

なでしこジャパンがW杯で優勝し、今年はオリンピックで準優勝、銀メダルを手にした。
つい先日までは、ヤングなでしこがU-20 W杯で活躍し、惜しくも3位の銅メダル。
ここのところ、女子サッカーに注目が集まっている。

日本の選手には(男子ね)、優秀なMF(中盤の選手)がたくさんいる。
ジュビロ磐田でかつて活躍したMF名波浩さんや、今も現役の清水エスパルス小野伸二選手、川崎フロンターレの中村憲剛選手など、彼らが一様に言うことのひとつに、「ピッチ全体を上から見ているようにパスコースが見える」というのがある。

ピッチにいながら(要するに地面にいながら)、グラウンドを上から見ているように人がどこにいて、どこが空いているのかが分かるのだという。
現実的には上から見ることは不可能なのだが、感覚的に空間全体を把握できるのだ。


この不思議な感覚、実は似ているものがある。
「幽体離脱」だ。

脳を調べる中で、ある場所を刺激すると、存在しないものがありありと感じられたり、自分の背後に幻影を感じたり、自分が天井にいる感覚を覚えたりするというのが、分かったらしい。
まさに、幽体離脱だ。

その場所は、脳の頭頂葉にある「角回(かくかい)」という個所。
こを刺激すると、身体が実際にある位置と意識が知覚している身体の位置がずれてしまう。

別に、不思議な現象ではなく、脳の能力のひとつである。


脳というのは、意識や心を生みだすためのものではないし、精神を司るところでもないとはよくいわれること。
脳は、身体のまわりの情報を処理して、適切な運動を起こすための「入出力変換装置」の機能を果たしているだけという。
(『脳は妙なクセがある』池谷裕二著)
ん~、例でいうと、
エサが近くにあれば近づき、敵がそばに来たら逃げる......といった、生きるために必要な反射行動を生みだすのが脳の役割だということ。

そう考えると、ピッチに立っている選手が、ゴールをするために、ゴール前にいる選手にパスを出さなければならない状況に対して、脳は必要な情報を俯瞰して見せることがどうしても必要だったために、「角回」を機能させ、見せた、ということなのだろう。


身体が求めれば("生きるために必要"とおもわせるほど強く)、脳はその方法を提示してくれる。あるときは、想像もつかない方法で......。



今日、2014年W杯アジア最終予選がある。
VSイラク!
どれだけの選手が、サッカー選手としてのプライドと人生をかけられるか。
それによって、見えてくることもあるのだろう。





"身体性"が明確になれば、脳はきっと最適なガイドをしてくれる。
さて、どうやれば身体感覚が高められるか!?
それが見えれば......









2012/08/31   地球外物質!

2012年8月30日、JAXA(宇宙航空研究開発機構)と茨城大学が、国際宇宙ステーションに設置した実験装置から回収した微粒子が、新種の地球外物質だと確認したとの発表があった。


おぉ~!
地球外物質!!
膨大な宇宙の謎のひとつがわかるかも!
記事にも「太陽系誕生の謎に迫る発見」とあるし、先日のヒッグス粒子の発見に続く快挙かも・・・・・
と反応したものの、どこか「?」と引っかかるものがあった。

よくよく記事を読んでみると、「新種」という言葉に、あれっ? を感じたよう。
新種って・・・・・。

もともとあったものを、今気がついただけじゃないのか?

よく、地球上でも、熱帯雨林の中でとか、深海で、"新種"の生き物を発見! なんていっているけど、
「何なに、今進化したばかりの生物を発見したってか?」と、突っ込みたくなる。
進化の過程の流れの中に属しない「種」が発見されたわけでもないのに、まったく使い方に注意してよ! といつも思うのだ。


一方で、こういった記事に接するたびに、本当にすごいなと思うのは、
「発見」したということは、同じものがまったくないということを明らかにしたことでしょう。
つまり、既存のものと一つひとつ比較して、全部違いますと証明したってこと。
全部だよ! 
「地球物質」がどれだけあるか知らないけど、地球にあるすべての物質と比べてみて、同じものはひとつとしてありませんでしたって言っているんだよね。
これはすごいと思う。

先の記事でも、宇宙ステーションの実験装置から回収されたのが、2005年ということ。
7年もの年月をかけて、すべて調べたのだろう。
その根気は素直にスゴイと思う。


「新種の地球外物質」は、鉱物だという。
地球上で確認されている鉱物の数は、約4400種ともいわれている。
直径約30マイクロメートルの微粒子を、7年もかけて、4400種と比較した。
もしかしたら、4400種目に調べた鉱物と同じかもしれない・・・・・そんなこと考えたりしなかったんだろうか。

いや、そんなこと実はたくさんあるのだと思う。
決して記事にならない、誰にも知られない、無駄にも思える労力の積み重ね。


しかし、このような積み重ねがないと、新しいこと、気づかなかったりするんだよなあ。

「経験はひとつも無駄にならない」というけど、なるほど、そういうことなんだよ。







2012/07/15   「ヒッグス粒子」と日本の神々

ついに実験で検証された「ヒッグス粒子」。
大きな話題になっているが、なんだか理科系だったわりには聞いたことないなと思って、調べてみた。
(要するに、勉強していない理科系だったってことなんだけどね)

そもそも素粒子とは......
物質を、細かく分割していく、細胞、原子、原子核、中性子......どんどん細かく分けていって、これ以上分割できないもっとも小さな単位のこと、だと思っていた。

半分あたっていて、半分はずれていた。
素粒子には、「物質を構成する素粒子」と「力を伝える素粒子」があるのだという。

「物質を構成する素粒子」とは、「電子」とか「ニュートリノ」とか、比較的耳馴染みのする素粒子たち。
「力を伝える素粒子」には、「光子」なんてのが入っている。

「ヒッグス粒子」は、どちらかというと「力を伝える素粒子」のジャンルに入るか、独立したジャンルで、「質量の起源となる素粒子」なんだそうだ。


この「物質を構成する素粒子」と「力を伝える素粒子」がいくつあるかというと、
物理学の基本ルールである標準理論上、あわせて17種類!

「ヒッグス粒子」は、実験で検証された最後の素粒子なんだそうだ。
(実際、実験では、99.9999%の確率で発見したということで、年内には確定するとみられているらしい)


ビッグバンの後、質量を持っておらず宇宙を光速で飛んでいた素粒子たちに、ヒッグス粒子がまとわりつき、質量を持った素粒子が集まりだし、原子核ができ、原子ができ、物質ができ、星ができ、銀河ができ、地球もでき、生命が生まれた......という。
「ヒッグス粒子」がなかったら生命も生まれてこず、"あなたも存在しなかった"、ということから、「ヒッグス粒子」は、「神の粒子」と呼ばれるようになっていた。


「神の粒子」か......そう来るか! なんて思っていたときにちょうど読んでいたのが、古事記だった。
『現代語 古事記』(武田恒泰著、学研)
冒頭の有名なところで偶然発見した符合。
伊耶那岐神と伊耶那美神の国生み、それに続く、神生みの部分。
伊耶那岐神と伊耶那美神が最初にお生みになった神々が、なんと十七柱だった!

あらま、同じ17なのね!! となんだかその偶然が嬉しくなってしまった。



実際、「標準理論」上、素粒子は17種類だが、仮説上の素粒子というのがまだまだたくさんある。
「重力子」なんて、何となく聞いたことのあるものも、仮説上の素粒子のひとつだ。


世の中を、もっと複雑に知りたいと思ったら、今の標準理論だけでは説明がつけられなくなるのだろう。
そうなってくると、今は"仮説"と呼ばれている理論や考えが、やがて"標準理論"となり、またさらに仮説がどんどん生まれ続ける......。けっして、17のまま留まることはないのだろう。
そんなふうに、"標準"といわれる理論がもっともっと増えていけば、世の真理や"理"といったものがさらにわかってきて、より深く知ることができるようになる。楽しみだなあ。


伊耶那岐神、伊耶那美神の神生みは、十七柱をお生みになっている途中で、その十七柱の中の河の神である速秋津日子神と速秋津比売神が八柱の神をお生みになり、また山の神の大山津見神と野の神の鹿屋野比売神も八柱の神をお生みになり......と、どんどん神生みは続いていった。



"理"は普遍なのだろうか、それとも刻々と変化を続けているのだろうか。
近づいたと思ったら、いつの間にか離れていた.....なんてこともあるのだろうか.。
でも、そういったことを繰り返しながらも追求することをやめなければ、きっと何かに気づくことができるのだろう。そう信じている。










2012/01/31   3分後の電車に

実家のある宇都宮から、事務所のある新宿まで通ってる。
俗にいう、新幹線通勤。
もうすぐ2年になる。
宇都宮から新幹線で大宮乗り換え、埼京線か湘南新宿ラインで新宿に辿り着く。

以前、帰るときに3分前の電車に乗ると、20分早く家に着くと書いた。
ところが先日、通勤の時に、3分後の電車に乗ろうとしたら、いつもより15分早く新宿に着いた! ということがあったのだ!!

新幹線からの乗り換えは、埼京線の方が近い。
だからいつも、埼京線に乗り換えていた。

その日は、湘南新宿ラインに乗ろうと、ふっと思った。
今まで利用しなかったのは、埼京線の方が3分早く大宮駅を発つからだ。
普通は、早く出発する方に乗ろうとするだろう。
それがなぜだか、その電車に乗ろうと思い、わざわざ遠いホームに向かった。

そうしたら、ホームの表示が十数分遅れていた湘南新宿ラインが入線するとのこと。
ジャストで乗り込めてしまった。
電車は、遅れを取り戻そうと、走る走る!
なんといつもの埼京線に乗るよりも、15分も早く新宿に着いた。

なんとも予想のつかない未来。
選ぼうと思ってもままならない過去と現在。
なぜだかその時、過去と未来は繋がっていると感じた。
というか、未来から過去に繋がっていると思ったのだ。

その時突然、
時間は、過去から未来へ流れるものではなく、ある瞬間に同時に現れるものなんだと感じた。


だれもが早く目的地に着きたいと思う。特に朝の通勤は。
しかし、ちょっと余裕をもった瞬間に、本当に早い選択ができたのだ。

「急がば回れ」←→「善は急げ!」
どうも片方だけしか知らないとダメなような気がする。
両方の感覚をもっていればこそ、より望む選択ができるのだろう。
どちらか片方だけに固執していては、開けないんだおるね。




「社長~! 朝出るときにウチの猫の調子が悪くなって・・・・・で、駅まで行く自転車が・・・・・で、車両故障とやらで・・・・・、"急いては事をし損じる"とか思いまして、遅れてしまいました」
「だっからよ! "早めのパブロン!"っていうだろう」
「?????」






2011/11/27   「100匹目の猿」と「シンクロニシティ」

ゼロハチマルを立ち上げる前、プラスキューという会社にいた。
その社長は、自分の人生の中での大恩人で、編集という仕事に就くことができたのも、その社長が拾ってくれたからこそなのだ。
感謝してもし尽くせない・・・・・。

その、プラスキューにいたころの話。
あるとき、すごく面白い企画を考えついた。
もうウキウキ気分で、社長に話しに行ったら、
「お前が考えついた時点で、世界中で100人ぐらいの人が同じようなこと考えているんじゃない」と言われた。
このあと何度も、同じようなことを言われるのだが、最初は正直ちょっとムカッときていた。

「でもさ、それを形にできるのが何人いるかってことじゃない」とか
「自分なりのアレンジを加えれば、世界で唯一の企画になるんじゃないか」
などなど、いろいろなことを考えた。
そういった考え、ある意味正しく、ある意味正しくなかった。

今は、"世界で唯一の企画"なんてものに、どれだけの意味があるのかが何となくわかるし、"面白い企画"の意味も随分と変わってきた(自分が面白がっているのか、人が面白がってくれるのかとか。その企画自体にどんな意味が込められているのか・・・・・などなどね)


ただ、その当時のことを思い返してみても、同時にいろいろなところで、同じような企画を考えつくということって、本当にあると思っていた。


「100匹目の猿」という話がある。
日本の島に生息している猿が、あるときイモを海水で洗って食べた。
それを真似をする猿が次々と現れ、ある一定数を超えたとき、その島から遠く離れた別の島でも、同様の行動を起こす猿が現れたというもの。
お~なるほど、あり得そうと思わせる話だが、
実際には、裏付けのない作り話だったことがわかっている。

「シンクロニシティ」もそう。
共時性や、意味ある偶然の一致と訳されているが、
心理学者ユングによって提唱されたもので、事象・出来事というのは必然的に起こるだけでなく、同時発生的に偶然によっておこることがある、という考え。
実は、シンクロニシティの例え話もあるのだが、後年、それも作り話だったという"オチ"があるらしい。

ただ、「100匹目の猿」と違って、どこか「シンクロニシティ」はありそうだなと思わせるのは、それが"人間の話"だからなんじゃないかと思う。

なんてことを考えていたとき、「共通性とか偶然の一致というのは、人間がかってに思い込んでいるだけである」という話しを聞いた。
人は、共通のところだけを覚えていて、それだけをピックアップするから「共通性」とか「偶然の一致」が強調されるというのだ。
たしかに、「血液型B型! しかも獅子座!! えっ七赤金星!!! すごい偶然いっしょだ」と言われても、いやいや3つしか合ってないし・・・・・といってしまえばそれまでだ。
当然、違うところのほうが多いのに決まっている。

「共通性」は、人だけに限らない。
激動の今の時代は、江戸末期から明治維新に向かうころと多くの共通性がある―――といわれても、確かにあるかもしれないけど、違うところだってたくさんある。


じゃあなぜ、「シンクロニシティ」のようなことを心理学者が提唱し、日常の中で自分でも「ありそう」と感じさせるのか。
それはきっと、人自身がそれを望んでいるからなのだと思う。

偶然でもいいから共通性をもっていたい


人が人である所以なのかな・・・・・





でも、直感というかシックス・センスというか何かが、「ないかもしれないけど、あるかもしれないよ」とささやいている。
「無記」―――今決めてしまう必要はない。
わかるときには、必然的にわかるから・・・・・


「社長! 前回、<つづく>で終わったかと思うのですが、内容が続いていないような・・・・・」
「だっからよ~!」




2011/11/22   スピは進化系?

前回、「言葉は、自分の体をコントロールするとても有効な方法で、 それは大脳皮質を使って体をだます技術だ」と書いた。
なぜここで突然、脳の話が出てきたかというと、言葉を司っているのが大脳皮質であるというのが重要だからだ。 


 また太極拳の話になって恐縮だが、その日太極拳を始める前に必ず「気功」を行う。 
気功の中でもまず、立禅から始める。
 座禅は座って行う禅。 
立禅は立って行う。 
もちろん、修行僧でもなければ禅僧でもないので、 真似事かもしれないが、それでも集中し、爽快にもなる。

 この立禅。 スタートしてすぐには、いろいろなことを考えてしまう。
 「今日の昼メシ何にしようか」とか「やり残した仕事、何から手を付けようか」とか。
 次から次へと頭に浮かんできてしまう。多分言葉になって。

 この言葉がくせ者なのだ。

 座禅や瞑想を一番邪魔するもの。 それが言葉。
 そして、この言葉を発しているのが脳。大脳皮質、大脳辺縁系だ。

 人類は言葉によって進化した。
ところが、この進化を促した脳の部分が邪魔をして、「気」がうまく流れなくなってしまうのだ。
 では、その働きを止めることができたとしたら・・・・・。 

できるのだ!
 その方法、ひとつは呼吸法。 

立禅をしながら意識して行うのが、腹式呼吸。
 吸気よりも、はく息を細く長く行う。
 意識を呼吸に集中することで、やがて頭の中から言葉は消えてゆく。

 別の方法としては、リズミカルな運動を続けることも効果的だという。
ようするに、言葉が浮かばないほど連続した運動。
エアロビとか、ジョギングとか、早めのウォーキングもそうらしい。

 では、ここで大脳皮質の働きを抑えたとき、今度はどこが活動を始めるのか?
 それは、脳幹だという。

 原始的な脳、生命の根源といわれる脳幹。
 人は言葉を得て進化してきたのに、「気」をめぐらすとか、瞑想するときには、新しい脳の動きを抑制し、古い脳を活性化させなければならない。

 別に、禅とか瞑想とかは退化を促進するものではないだろうから、きっと何か失ってはいけない大切なことを呼び戻そうとする、本能的な行動なのだろう。
 と考えると、前回言った、「大脳皮質を使って、体や行動をコントロールする」というのは、進化系の高等技術なのではないか!?

 おお〜! スピリチュアルは、進化した人類の新しい生きる術なのかもしれない!?
 <つづく>

 「社長! つづくって初めてですが?」
 「だっからよ〜!」


2011/11/21   お経とスピリチュアルの共通性

最近、スピリチュアル系の雑誌の編集などをやらせていただいていることもあり、ウチの事務所はスピがかった会話がよく飛び交う。

引き寄せの法則というのは、随分と一般的な言葉なのだろうか?
今や身近に飛び交う言葉なので、どうも世間との距離感がよくわからない。

そうその、"世間との距離感"を大切にしておきたいと常々思っているのだが、意外な方向から共通点が垣間見えたりすると、昔からあったことなのかとか、本当にあるのかもしれないと思うことがある。


例えば、「思いを言葉にだせば実現する」といったもの。

臨済宗の僧侶であり、芥川作家の玄侑宗久氏が書いていた。
お経や真言の中にある言葉は、「~になりますように」ではなく、「~が成就した」という現在完了形なのだそうだ。

言葉は、自分の体をコントロールするとても有効な方法で、それは大脳皮質を使って体をだます技術なのだという。

自分の能力をどれほど発揮できるか、それは自分をどれだけおだてられるかにかかっている。
おだてるのに必要なのが言葉。
しかも、完了形。
さらに、声に出せばなお効果的になる。
自分の声が、自分の脳に影響を与えるのだそうだ。


神社仏閣に行ってお参りするとき、「~なりますように」とお願いするのが一般的・・・・・というか、そう教わってきたような気がする(誰に教わったのだろう?)。
お参りも、祈願も完了形にすることで、より効果的=実現に近づくといわれている。

んんっ?
神社仏閣でのお参りは、神や仏への祈願。
大脳皮質を使って能力を発揮させるのは、たしか瞑想の話しだったような・・・・・。

してみると、神や仏は脳の中に存在するのか???

そういえば、心は内蔵に宿るという話しを聞いたことがある。
心が内蔵に・・・・・、何とも興味深そうな話し。
これはこれでまた別の機会に



「社長~! 原稿がうまく書けました!! 担当した書籍がベストセラーになりました!!!」
「さっそく実践か。もっと脳を使って体をだまし、能力を発揮させなさい! そうすれば"ボーナスがドンと出せました!"」
「社長~~! 本当にお願いしますよ!!」
「だっからよ~」








2011/10/29   3分前の電車で

何度か前のブログに、3分前の電車に乗ったら、20分も早く家に着いたということを書いた。
本当はそこにある事実でも、知らずに利用もしないと、その人にとっては事実ではなくなってしまう。
知っていれば、より選択肢は増える。
知らなくても、いや知らなければ知らないんだから、実際にはどうってことない。実はね。

で昨日、その3分前の電車に乗った。
実際は、事故の影響で少し送れていて、本来3分後に出る電車よりも遅れて出た。
すると、緊急停止!
また事故の影響で止まるとのアナウンス。
本来、3分後に出て、20分遅れでしか家に着かない電車の方は、順調に走ったようだった。
実際に家に着いたのは、いつもより2時間も遅い時間だった。


世の中、ガチガチに決まったことってないんだなあと思った。
U山によると、なにかの啓示だという。
でも、そんなこともあるんだな、くらいに思っていたい。
できれば。


そういえば、前日にはチャリでコケている。
考え事をしていて、しかもかなり疲れていたし、
しかも、避けられないシチュエーションだったし・・・・・。

あまりにも痛みが引かないので、昨日、病院に行きレントゲンを撮った。
(久しぶりに自分の骨を見たけど、キレイだったなあ・・・・・。まあ、それはそれとして)
奥の方で、見えないところもあるので何ともいえない、ということだったが、
今日になって随分と楽になってきたから、折れてはいないのだろう。
首の回りも違和感があったのだけれど、大丈夫そうだ。

そんな"凶事"を連想させるようなことが続くと、何か原因があるのではないかと、だれもが悪者探しをしてしまう。
そして、その悪者を排除してしまえば、改善できると思ってしまう。
思った方が、気は楽だから。

でもさ、そんなに力の強力な悪者っているんだろうか?
根こそぎ、悪い方向へ引っ張り込んでしまうような、そんな存在っているのかなあ。

相性が悪くて、よくない化学反応を起こしてしまうことはあるかもしれない。
うんうん、これはあるなあ。
食い合わせって理由があるというし、
フグのようにおいしいものには毒があるし・・・・・(関係ない?)

まあ、できればそんなこともあるさと鷹揚に構えていられればと思うわけです。


いいことばかりが続くことはないし、
悪いことばかりが続くこともきっとない。
そう信じて、生きていくのさ!
(なんか今日のテンションやっぱりおかしい?)



「社長! 今日、取材先に30分も遅れていって、原稿がどうしても書けなくて、編集長からは怒られて・・・・・、でも道で100円拾いました! 悪いことばかりは続かないもんですね~」
「悪いことが全部仕事がらみでは? しかもいいことが100円・・・・・」
「あっいや、たとえですって」
「だっからよ~!」







2011/10/22   何に対して頭を下げるか

最近、何かに対して頭を下げたことがありましたか?

頭を下げるシーンというのは、いろいろある。
例えば、感謝の気持ちを表すとき(こうれは「どうもありがとう」かな)、わびるときや謝るとき(「どうもすみません」)、商売をしていればお客さんに(「まいどあり」とか)、武道などの前(「よろしくお願いいたします」かな)、などなど。

呼び名もいろいろあり、「頭を下げる」「お辞儀をする」「礼をする」「会釈する」「最敬礼」・・・・・それぞれに微妙に異なる。


今日は午前中、太極拳をやってきた。
稽古を始める前に、まず礼をする。
腰から曲げ、手が床につくほど、コウベを垂れる。
これは、師に対して、一緒にやる仲間に対して、よろしくお願いいたしますという気持ちを込めることと、今日の稽古に参加できたことへの感謝、そして今ある自分に対して感謝・・・・・という意味だと解釈している。
これは、「礼」。

最近よくTVなどで見かける、企業のトップレベルの人が頭を下げるシーン。
あれは、「叩頭(こうとう)」といって、頭を地面にすりつけるほどお辞儀をすること。さらにエスカレートすれば「土下座」となる。
あまり見たくないお辞儀・・・・・。

日常、お店などで店員は、お客さんに対して「いらっしゃいませ」と頭を下げる。
日々、スタッフの働きぶりには、頭が下がる・・・・・。これは、感服するとか敬服するという意味だ。


人は、どのようなときに、何に対して頭を下げるか。
ある人が言った。
「頭を下げる対象は、その人にとっての絶対価値のあるもの。商人は、顧客に対して頭を下げる。しかしこれを、商人にとっての絶対価値が顧客だと思ってはいけない。商人にとっての絶対価値は、その裏にある"お金"なのだ」と。

謝罪して頭を下げる人が、誰に対して、何に対して頭を下げているか、冷静に見ているとそれは見えてくる。
そういえば、最近のお店のスタッフは、笑顔で「いらっしゃいませ!」と言ってニッコリするけど、頭って下げていたっけ?
マニュアルには感謝の気持ちは含まれておらず、スタッフにとっての絶対価値は目の前のお客さんではないのだ。



日本には、至るところに神社やお寺がある。
小さなほこらがあったり、意外な身近にお地蔵さんがあったり、古木がご神木として祀られていたりもする。
家の中には、神棚があり、仏壇もある。
これらに触れたとき、自分は素直に手を合わせ、頭を下げてしまう。

お願いごとをして「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。
朝、「おはようございます」と頭を下げ、ただ単に「こんにちは」と頭を下げ、「おやすみなさい」と頭を下げる。
ときには、「どうぞ、お導きください」と頭を下げることも・・・・・。

じゃあ、これが自分の絶対価値なのか? と自問自答してみても、よくわからない。
絶対価値に対してしか頭を下げないのか? と聞かれてもよくわからない。
よくわからないことには、こたえを出さなくていいと自分のブログにも書いたので、これはこのままにしておこうと思う。(「無記」についてのブログ http://www.zerohachimaru.net/blog/igarashi/2011/10/02/ )

ただ、頭を下げる人を冷静に見ていると見えてくることがある。
頭を下げようとしない人からも、同じようにいろいろなことが見えてくる。
お辞儀ひとつとっても、世の中見えてくることがたくさんある。



「社長! おはようございます!!」
「おぉ~。そんなに深々とお辞儀をしなくてもいいんだよ」
「あっ、すみません! 足もとに100円が落ちていて・・・・・」
「だっからよ~」






2011/10/19   企画と電車から考えた、すでにあるものに一喜一憂するということ

昨日の帰宅のとき、その前日に乗った電車よりも、新宿発が3分早いものに乗った。
そうしたらなんと! 家に着くのが、20分も早かったのだ!!

単にラッキーだったのか、"運"を引き寄せたのか・・・・・なんて思ってもみたが、冷静に考えると以前にも、この時間発の電車には乗っていたはず。
偶然にも、前日そしてたぶんその前日にも、その3分後の電車に乗っていたから、昨日のことがとても印象的だったのだと思う。


仕事上で企画を考えるとき、「企画というのは組合せだから」ということをよく言っていた。
まったくのゼロから、今までにない新しいことを生み出そうなんて考えてはいけない、ともよく言った。
だって、もし世の中にないまったく新しいものが目の前に出現したとしたら、人はそれを素直に受け入れると思う?
まず、見たことも聞いたことも、触れたこともないものには、警戒心をもつのが普通だと思うから。

仕事上で求められる企画というのは、例えば新商品を(もちろん、まったく今までこの世の中に存在していなかったものではない)、売り出そうとするとき、いかに人々にその商品を訴求し、いいイメージをもってもらい、手に取らせ、購入させるかを考えるわけだから、人が心地よく思ったり、安心して聞いてくれたり、信頼して購入するきっかけをあたえる内容でなくてはならない。
そんなところに、人が心から警戒心を抱くようなものを見せつけてしまっては、意味がない。

企画というのは、組合せなのだと思う。
さまざまな点と点を結びつけ、いかに目新しく斬新でユニークで心地よい組合せを提示できるかということ。
その組合せが、たったふたつの誰もが知っている結びつけだったら、きっと人の共感は呼ばない。
それは、面白くないとか、今までに見たことある、と言われてしまうのだ。

だから、よりたくさんの点を組合せて、しかもそれが複雑とは見せずに、さらにその点が思いもよらないものの組合せであったとしたら、人は興味をそそられ、意外性に驚き、企画として賞賛されるようになるのだと思う。


その「点」。
これは、世にすでにあるものたち。
この点自体が、まったく新しい存在であることはない。

点にしても、3分前の電車にしても、既存のものだ。
ただ、3分後の電車に乗ったことがなければ、3分前の電車に乗れば20分早くということは着くことは、実体験できない。
また、早く着くことをよしとするのか、ゆっくりでも座っていけるほうがいいとするのか。
もしかしたら、早く帰りたくない人だっているかもしれない。
そういう人にとっては、20分早く着くことが、いいことではないかもしれない。


われわれはどうも、"すでにあること"に対して一喜一憂しすぎているようだ。
それしか知らなければ、そのこと自体が"いい"とも"よくない"とも判断はつかないものなのに。

この前に書いた、「成功」と「失敗」だって、何を基準に成功、失敗と言っているのか、深く考えるとわからなくなってくる。
「今とてもつらい」と思っている人だって、別の立場の人から見れば「そんなもんで、つらいって言う?」ということだって、なきにしもあらず。
違った角度で見ることができれば、「あれっ? なんでつらいんだっけ?」となるかもしれない。

それは、心のもちよう・・・・・という言葉では片付けられない、もっと深い、人間としての何かがあるのだと思う。



「社長! ボクは目の前にある"締め切り"や"納期"に一喜一憂することをやめました!」
「だっからよ~!!」



2011/10/02   「無記」

「一言相契 万古不移」という言葉がある。

「一言が真理に契えば(かなえば)、その一言は永遠不滅である」という意味。
作家の玄侑宗久氏はこの言葉を、「人は決定的なひと言に出逢うことで、これまでの過去も想定される未来もガラリと更新することになる」といった。

先日、新大関の口上で琴奨菊は、宮本武蔵の五輪書を参考に「万里一空」という言葉を述べた。
これなどは、自ら何か言わなきゃと、選んだものであって、言葉に出逢ったというニュアンスとは異なるが、"地位を人がつくる"という例えがあるように、その言葉に自らを近づけていきたいという意思は感じられる。

自分のプロフィールなどに、座右の銘を記する人って意外と多いが、琴奨菊は関取でいる限り、この「万里一空」という言葉がついて回ることになるのだ。
自分のことを考えると、残念ながら座右の銘を聞かれるような状況になったことがないので、人に言えるような言葉というものを真剣に考えたことがない。
というか、そんなこと意識したこともなかったというのが正直なところ。
そうだったのに、先日ここに書いた、「無記」という言葉が、あれから気になって気になって仕方がなくなってしまった。
そこで、ちょっと調べた。

お釈迦様に、弟子たちが聞いたこと
1)この世は永遠か                 2)この世は永遠ではないか
3)この世は有限か                 4)この世は無限か
5)魂と身体は同じか                6)魂と身体は別のものか
7)如来は死後存在しないか           8)如来は死後存在するか
9)如来は死後存在せず、かつ存在するのか 10)如来は死後存在しないのでなく、かつ存在するのでもないか

この4種10個のというに対して、釈迦は「無記」としかこたえなかったという。これらが「十無記」。
また「十四無記」というのもあるようだ。

1)世は常であるか                2)世は無常であるか
3)世は常かつ無情であるか           4)世は常でも無情でもないか
5)宇宙は有限か                 6)宇宙は無限か
7)宇宙は有限でもあり無限でもあるか     8)宇宙は有限でも無限でもないか
9)如来に死後は存在するか          10)如来に死後は存在しないか
11)如来は死後存在せず、かつ存在するのか12)如来は死後存在しないのでなく、かつ存在するものでもないか
13)魂と肉体は同一か              14)魂と肉体は別のものか

あるかどうかわからないもの、真偽を決定できないことにこだわりすぎてはいけないという教えだという。
"そんなことに無駄な時間を費やすな"など、ろいろな解釈があるようだが、もっともしっくりきたのが、昔、茂木健一郎氏がたしかTwitterでツイートしていた、こんな内容。
「言葉で"こうだ!"と決めてしまうことは、考えること、行動することを、そこで止めてしまうことになる」
自らの生を駆動するエネルギーの有機体は、言葉で表現してそれで満足できるようなものであるはずがない、というものだった。

確かに、「無記」でいるかぎりきっと考え続ける。
決めつけることは、思考も行動もそこまで。それ以上、追求しなくなる。



現実の中では、決断をしなければならないことは数多い。
即断即決を迫られることも、しょっちゅう。
というか、生きることは決断の連続といっても過言ではない。
しかも、その決断が正しいのか間違っているのか、わからないままに進んでいくことも多々。

部下や社員の評価、付き合い先の人間関係、
仕事の内容、仕事の意義、
社会活動、政治判断、
身近なところでは、親のこと、友だち関係、パートナーとの関係などなど。

決断できない人間は無能という烙印を押されがちだ。
しかし、決断できないのではなく、決断しないのだとしたら・・・・・。

何が正解か、何が正しいのか、
それが世の中の真実なのか、真意なのか、理(ことわり)なのか、
わからないことには「無記」で通せばいいのだと、今になって少しほっとしている。




「社長~! "無記"のどこが一番しっくりきているんですか? もうちょっと具体的に教えてください!!」
「だっからよ~! 無記・・・・・!!」
「え~、そこで~?」


2011/09/24   成功の法則の奥にあるもの!?

先日、ある高名なかたの講演会に参加させていただいた。
テーマは、「幸せと豊かさを実現する5つの秘訣」
話しは面白く、会場に詰めかけた多くの人もたいへんに好意的で、あたたかい雰囲気の中、会は進んだ。

秘訣1
正しい行いをすること
(自分の良心が導く道を生きること)

秘訣2
自分の情熱を発見し、情熱的に生きること
(自分の声に耳を傾けることが大切)

秘訣3
すすんで他人に仕えること
(他人を幸せにすると、与えたものがかけ算になって返ってくる)

秘訣4
自分の過ち、他人の過ちを許す
(過去の過ちに縛られていてはいけない。、怒りは幸せを導かない)

秘訣5
人生から争いごとを避ける
(争いと幸せは共存できない)

例え、どのような厳しい状況にあろうが、自分の物語は無限大に展開することができる。
その状況を怒りのストーリーにするか、ハッピーな物語にするか・・・・・。
チェンジストーリー→チェンジマインド
これも、幸せを実現するためのひとつの方法だ。

なるほどと思い、これがよくいわれる「引き寄せの法則」なのかと納得した。


しかし一方で、ノドに引っかかる小骨のような小さな違和感があった。

前回のブログに書いた、すべての事象は「因果応報」ではなく、日ごろの善行は自分に戻ってくることはほとんどなく、巡り巡って知らない人にもたらされるものである。これを、「ご利益(ごりやく)」といい、たまたま自分のところに巡ってきた場合を「功徳(くどく)」という―――という話し。

「他人を幸せにすると、与えたものがかけ算になって返ってくる」
誰もが素直にそう信じたい。
でも、仏教では、なかなかそうはいかないものなんだよと説く。
どうしても、仏教的なほうに共感を覚えてしまうのだ。


最近、仏教の教えの中で興味をもったものに、「無記」がある。
すごく説明するのが難しく、まだ感覚的にしかつかめていないのだが、
大辞林には「釈迦が他の諸宗派からの形而上学的な質問に答えなかったこと」とある。
大辞泉には「善でも悪でもない中立的な性質」「答えるに値しない質問を無視すること」とあるが、どうも違う。

例えば、霊魂に対して、あると決めてしまうと"知の体系"は閉じてしまう。ないと決めてしまっても、それは閉じてしまう。そこで、「無記」にあるように答えないと、閉じずに開いたままでいる。
科学なら科学的でないもの、宗教なら宗教でないものに向かって開く。だから、答えない。
それは、"ある"といっても"ない"といっても、論理的に矛盾が起こってしまうのだ。
だから答えないのだ。閉じさせないためにも。


自分の経験の中で、とにかく何にでも結論を出さなければならないと思っていた。
たぶん、そう教育を受けていたんだと思う。
でも、今は結論を出さなくてもいいことって、実はたくさんあるというのが実感なのだ。

結論が出ないことは、考えても仕方がない・・・・・といわれてしまえば、そうかもしれないが、考え続けなければ、解き明かされないことというものあると思う。


宇宙の果てはどうなっているのかとか、光よりも早い素粒子は波動なのか粒子なのかとか、神はとか、時間は未来から流れてくるのではないかとか・・・・・考えるの好きなんだよなあ。



「社長! ボクの評価"無記"でお願いします!!」
「んっ? それは、答えるに値しないから考えてもし方がないという宣言か?」
「えっ、いや、その・・・・・。今すぐには、結論を出さないでということで、よろしく・・・・・みたいな」
「だっからよ~!」






2011/09/17   利益とご利益と縁起

『るるぶ』の仕事を随分とさせてもらっている。
長野の善光寺でおこなわれる7年に一度の御開帳。前回の2009年の御開帳に向けての『るるぶ長野善光寺』から制作に携わり、今もこの『るるぶ』をつくらせていただいている。
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これが今、書店などに流通しているものだ。


この制作の過程で、善光寺と戸隠神社を長い時間取材させていただき、いろいろなことを勉強させてもらった。
「ご利益」や「縁起」という言葉に、頻繁に接するようになったのもこのころからだ。

「利益」という文字を見れば、「りえき」と呼んでいた。
営業をしていたり、会社を切り盛りしていれば、「りえき」とよんでしまうのは仕方がないこと。
神社仏閣と触れる機会が増え、ようやく「ごりやく」とよむことがしっくりきだした。


その「利益(りやく)」、仏教の言葉である。
日ごろからの行いというのは、自分に戻ってくることはほとんどなく、巡り巡って知らない所で知らない人にもたらされるもので、それを「利益(りやく)」といい、たまたま自分のところに巡ってきて、自分に結果をもたらす場合だけを「功徳(くどく)」というのだそうだ。


「えっ!? いいことをしていれば必ず自分にいいことが戻ってくるのではないの?」
誰もがそう思うのではないだろうか。
そうなのですよ。戻ってこないというのがもともとのお釈迦様の教えなのだそうです。


いかし、逆も言える。
「何か悪いことをしたから、こんな酷い目にあってしまった」
これは、ある意味仏教的ではないということになる。
決して、「原因」→「結果」の一対一に対応するものではなく、「因」→「果」もあれば、「果」→「因」もあり、さらに因が果になり、果が因となり複合的に絡まり合って事象が成立するものなのだ。
そして何とこれが、「縁起(えんぎ)」なのだそうだ!

「縁起」とは、「因縁生起(いんねんしょうき)」の略で、
結果というのは「因」と「縁」よって起きるという考え。


仏教的には、
「日ごろの行いがいいから、うまくいっている」のではなく、
「おかげさまで、このことができているのは、ご縁に出会ったから」なのである。
深い・・・・・
「ご縁を大切にする」というのは、「関係性を大切にする」ということ。
良いことも悪いことも含めて積極的に関わろうとすれば、新しい扉は開かれる。
しかし、その関係性には執着してはいけない。
奥深い・・・・・



「利益(りえき)」は直接的だ。
収入から支出を引いたもの。
なんらかの商品の営業をして、その売上げが自分のところには来ないで、知らないところで売上げになる、なんてことはあり得ない!
売上げ→利益が出る、はあるが、利益が先で→売上げが後、もあり得ない。


ビジネスのスタイルというのは、反仏教的な行為なんだろうか? なんて考えてしまう。しかしなぜ、同じ漢字なのだろう?
まったく不可思議だ


一方で、「因果応報」というのも仏教の考えのひとつ。
釈迦の教えが難しすぎて、省略してたら、こうなっちゃいました。
といったところなのか?
単純化しすぎ、省略化しすぎ・・・・・のような気がする。



「社長! 釈迦の教えに従い、キャバクラへ行っておねえちゃんたちとの縁を広めてこようと思うのですが」
「・・・・・だっからよ~!」