2014/04/15   ばなびずがどばらない・・・・・

今週のアタマから、朝はまずくっしゃみで目が覚めというか、

しゃみと鼻水で起きざるを得なくなり、

通勤の新幹線の中では鼻をかみまくり、

事務所でもティッシュ箱が手放せない――そんな状態。


花粉症は乗り越えてきたものだと自認していたのに、勝手な思い込みだったのか!?

それでも、人と会っている時には不思議と鼻は止まり、

分かれた瞬間に、だだーーっと(スビバセン)

今週は、取材で外回りが多いのに、どうなるんだろう・・・・・。



お願い、なんとかしてくださ~い!

と思わずすがりつきたくなるような気分だ。



と、そんな時、内山がブログで書いている、迫 登茂子先生の本の一節を思い出した。

※内山のブログはこちら ↓



内容は、こんなことだった――

祈りや言霊のすごさを言っているものだった。

光を当てて祈り(独特な言い方ですが何となく分かりますよね)、

大宇宙のバイブレーションと一致すると(何となく分かりますよね)、

「生命」「愛」「平和」とつながる。

ただし、「祈り」が「ねだり」になると、それはエゴでしかない。




自分が何かに手を合わせる時、

例えば、神社や寺社にお参りに行った時や、神棚、仏壇に向かったりとか、

道端のお地蔵さんにだったりとか、

純粋に「祈り」だけを届けているかというと、自信がない。

「みんなが健康でありますように」――これは、祈りか!?

「病気が快癒しますように」――これは、祈りか!? ねだりか!?

「会社が儲かりますように」――これは!?

「お金に苦労しませんように」――これは・・・・・

「宝くじが当たりますように」――これは・・・・・



同じ結果を想定していても、結果に至るまでの段階で、祈っているのかねだっているのか、

そこのところはとても微妙だ。

おねだりは、エゴということは、「我」だから、自分のことだけを考えていては、

神様は話を聞いてくれないということ・・・・・なのだろう?

ちょっと前に、「我が、我がという時代じゃない」と書いたばかりだから、

きっとそうだろうということで、今日のところは、ヨシとしておこう。


鼻の下が痛痒くなってきたので、もうアウトするm(_ _)m









「社長~! 早くよくなるように祈っています!!」
「あ、り、が、と、う・・・・・。それは純粋な祈りだよな(うるうる)」
「早くよくなって、飲みに連れて行ってください!」
「だっからよ~! そのひと言さえなければ・・・・・」






参考:『神のささやき』迫 登茂子著


2014/03/21   判断するということ

人は、さまざまなシチュエーションにおいて、常にものごとを判断しながら生きている。

では、判断するとき、何を基準としているのだろう。



経営者が、「会社と従業員の利益を最優先に考える」と言うことに対して、
それは違うという人は少ないだろう。

しかし、どうも、そういうことじゃないような気もするのだ。
(迷う経営者、悩む経営者・・・・・)



思想家、哲学者の言葉から。

「損得を考えているから、何が正しいか分からなくなる」

何が喜ばしいかを基準にせよ。

自分にとってではなく、多くの人にとって喜ばしいことを。






「プラスかマイナスかという価値判断基準を捨てよ」

健康はプラス、病気はマイナス

合格はプラス、不合格はマイナス

お金がたくさんあるはプラス、お金がないはマイナス

地位が高いのはプラス、低いのはマイナス

生存はプラス、死はマイナス

安楽はプラス、苦労はマイナス・・・・・

こういった価値観や考えをもっている限り、それらの基準に照らし合わせて
自分はプラスの状態か、マイナスの状態かを判断してしまう。

周りの価値観にあわせることは悪いことではないが、
物質的な観点のみになってしまうと、物質的な成功こそがプラスとして
意味や価値をもつことになってしまう。




成功している企業には、金儲けだけでないコンセプトがあるとよくいわれる。

何をもって成功なのか、その判断基準が、物質的なこと以外にもあるということなのだろう。

人の人生の最終目的は何なのか・・・・・。




「人生をつまらなくするのは簡単だ。結果や報酬を目的として生きればいい」

物質や金銭は、人が利用するものであって、それ自体には価値はない。

価値になり得るのは、心や精神に触れるものだ、と思想家は言う。





「価値」というのは、あらかじめ決められて、そこにあるのではない。

何かに「価値」を与えるのは、常に自分自身である。



人生において、あらかじめ用意された「正解」は、どこにもない。

意味を備えたものがあるのではなく、自分自身が関わったときに初めて意味をなすのだ。



さらに、あらかじめ固定された「自己」はない。

何かに成ろうとし続ける、その継続によって「自己」ができるのだ。


人は何にでもなれる。

何でも自由にできる。

可能性は大きく開かれている。

性格は、固定されたものではない。

だから、周りの意見や占いなどによって、自分の可能性を狭くしない方がいい。





では、会社で、この事業体で何をやっていくのか。


こんな言葉にも出会った。

「仕事」そのものには意味はない。

「仕事」は、道具にすぎない。

「仕事」は、自分を表現する道具でしかない。

「仕事」をすることを通じて、自分自身が意味をもつ。

どのような「仕事」であっても、本質は世の理を表現すること。





何が正解なのか、それは時間が証明するのだろうか。

あの時、こうしておけば良かったとか、

あの時、こうしたから今があるとか。


本質的なことを見極めるには、

時間と空間を俯瞰して全体を見渡せる視点を

もたなければいけない。




そっか・・・・・

to be continued








「社長~っ!」
「なにかな?」
「全体を俯瞰して見る目をもてと教えてもらいましたが、時間も超越するんですか?」
「そうだね・・・・・無記!」
「あ~っ! また、都合の悪いことになるとすぐ"無記"だ!!」
「だっからよ~! ・・・・・確かに都合いいな」







参考:白取春彦著『頭がよくなる思考術』
白取春彦著『頭がよくなる逆転の思考術』
飯田史彦著『完全版 生きがいの創造』





2011/08/20   人を叱るということ

人が集まり組織ができると、おのずとリーダーができたり、まとめマネジメントする立場ができる。
会社の場合、社長でありCEOであり、プロジェクトリーダーだったり、部長だったり、スポーツチームの場合、監督だったり、キャプテンだったりする。

組織をまとめるときに、上司が部下を叱責することというのはよくあることだ。
自分が会社の中の、そのような立場だったとき、確かによく叱っていたような気がする。

今の立場でも、叱ることはある。
しかし、あるときから、人を叱ることがすごく怖くなった。
それは、「発した言葉は、それが正しくなるようにおのずと行動るようになる」といった内容のことを読んだときからだった。

"成功の法則"などに、出てることに似ているかもしれない。
「言葉にすれば、それは実現する」といった、あれだ。
「手帳にかけば、夢は現実となる」も似ているかもしれない。


なぜなのか? こういうことなのだと思う。
上司が部下を叱責した。
「バカ野郎! お前は本当に仕事ができね~な」
一度言葉に出してしまったら、その部下がダメで仕事ができなければ、言った上司の言葉は正しいと証明されることになる。
逆に、部下がデキて仕事がうまくいったら、上司は嘘を言ったことになってしまう。
(ここでは、上司は部下のためを思って、あえて叱責したといったストーリーは考えないで)

つまり、一度言葉に出してしまったら、ダメな部下はダメなまま、仕事はできないまま、いやもっと酷い目にあうことさえ、無意識の中で望んでしまうということなのだ。

恐っ!

「言霊」~言葉は魂が宿る、というが、
発した言葉に魂を込めるのは自分自身であり、その魂は自分が望む結果を想定したものなのだ。

だから、人を叱るのは、すごく難しいことだと思うようになった。
でも、社長という立場上、スタッフを叱らなければならないときもある。
明らかにサボっているとき、モチベーションが激下がりしているとき、周りの状況を把握していないとき、などなど・・・・・・

人を叱るときの正しいやり方なんて、ないのだと思う。
100人の部下がいて、100のシチュエーションがあったら、100×100=10,000
これだけで1万通りだ。
1万パターンも叱り方のバリエーションなってもってはいない。
難しい・・・・・。



「社長! ボクは褒められて育つタイプなんです!!」
「だっからよ~! まず先週締め切りだった原稿書いてから言えっていうの!!」