2011/10/29   3分前の電車で

何度か前のブログに、3分前の電車に乗ったら、20分も早く家に着いたということを書いた。
本当はそこにある事実でも、知らずに利用もしないと、その人にとっては事実ではなくなってしまう。
知っていれば、より選択肢は増える。
知らなくても、いや知らなければ知らないんだから、実際にはどうってことない。実はね。

で昨日、その3分前の電車に乗った。
実際は、事故の影響で少し送れていて、本来3分後に出る電車よりも遅れて出た。
すると、緊急停止!
また事故の影響で止まるとのアナウンス。
本来、3分後に出て、20分遅れでしか家に着かない電車の方は、順調に走ったようだった。
実際に家に着いたのは、いつもより2時間も遅い時間だった。


世の中、ガチガチに決まったことってないんだなあと思った。
U山によると、なにかの啓示だという。
でも、そんなこともあるんだな、くらいに思っていたい。
できれば。


そういえば、前日にはチャリでコケている。
考え事をしていて、しかもかなり疲れていたし、
しかも、避けられないシチュエーションだったし・・・・・。

あまりにも痛みが引かないので、昨日、病院に行きレントゲンを撮った。
(久しぶりに自分の骨を見たけど、キレイだったなあ・・・・・。まあ、それはそれとして)
奥の方で、見えないところもあるので何ともいえない、ということだったが、
今日になって随分と楽になってきたから、折れてはいないのだろう。
首の回りも違和感があったのだけれど、大丈夫そうだ。

そんな"凶事"を連想させるようなことが続くと、何か原因があるのではないかと、だれもが悪者探しをしてしまう。
そして、その悪者を排除してしまえば、改善できると思ってしまう。
思った方が、気は楽だから。

でもさ、そんなに力の強力な悪者っているんだろうか?
根こそぎ、悪い方向へ引っ張り込んでしまうような、そんな存在っているのかなあ。

相性が悪くて、よくない化学反応を起こしてしまうことはあるかもしれない。
うんうん、これはあるなあ。
食い合わせって理由があるというし、
フグのようにおいしいものには毒があるし・・・・・(関係ない?)

まあ、できればそんなこともあるさと鷹揚に構えていられればと思うわけです。


いいことばかりが続くことはないし、
悪いことばかりが続くこともきっとない。
そう信じて、生きていくのさ!
(なんか今日のテンションやっぱりおかしい?)



「社長! 今日、取材先に30分も遅れていって、原稿がどうしても書けなくて、編集長からは怒られて・・・・・、でも道で100円拾いました! 悪いことばかりは続かないもんですね~」
「悪いことが全部仕事がらみでは? しかもいいことが100円・・・・・」
「あっいや、たとえですって」
「だっからよ~!」







2011/10/22   何に対して頭を下げるか

最近、何かに対して頭を下げたことがありましたか?

頭を下げるシーンというのは、いろいろある。
例えば、感謝の気持ちを表すとき(こうれは「どうもありがとう」かな)、わびるときや謝るとき(「どうもすみません」)、商売をしていればお客さんに(「まいどあり」とか)、武道などの前(「よろしくお願いいたします」かな)、などなど。

呼び名もいろいろあり、「頭を下げる」「お辞儀をする」「礼をする」「会釈する」「最敬礼」・・・・・それぞれに微妙に異なる。


今日は午前中、太極拳をやってきた。
稽古を始める前に、まず礼をする。
腰から曲げ、手が床につくほど、コウベを垂れる。
これは、師に対して、一緒にやる仲間に対して、よろしくお願いいたしますという気持ちを込めることと、今日の稽古に参加できたことへの感謝、そして今ある自分に対して感謝・・・・・という意味だと解釈している。
これは、「礼」。

最近よくTVなどで見かける、企業のトップレベルの人が頭を下げるシーン。
あれは、「叩頭(こうとう)」といって、頭を地面にすりつけるほどお辞儀をすること。さらにエスカレートすれば「土下座」となる。
あまり見たくないお辞儀・・・・・。

日常、お店などで店員は、お客さんに対して「いらっしゃいませ」と頭を下げる。
日々、スタッフの働きぶりには、頭が下がる・・・・・。これは、感服するとか敬服するという意味だ。


人は、どのようなときに、何に対して頭を下げるか。
ある人が言った。
「頭を下げる対象は、その人にとっての絶対価値のあるもの。商人は、顧客に対して頭を下げる。しかしこれを、商人にとっての絶対価値が顧客だと思ってはいけない。商人にとっての絶対価値は、その裏にある"お金"なのだ」と。

謝罪して頭を下げる人が、誰に対して、何に対して頭を下げているか、冷静に見ているとそれは見えてくる。
そういえば、最近のお店のスタッフは、笑顔で「いらっしゃいませ!」と言ってニッコリするけど、頭って下げていたっけ?
マニュアルには感謝の気持ちは含まれておらず、スタッフにとっての絶対価値は目の前のお客さんではないのだ。



日本には、至るところに神社やお寺がある。
小さなほこらがあったり、意外な身近にお地蔵さんがあったり、古木がご神木として祀られていたりもする。
家の中には、神棚があり、仏壇もある。
これらに触れたとき、自分は素直に手を合わせ、頭を下げてしまう。

お願いごとをして「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。
朝、「おはようございます」と頭を下げ、ただ単に「こんにちは」と頭を下げ、「おやすみなさい」と頭を下げる。
ときには、「どうぞ、お導きください」と頭を下げることも・・・・・。

じゃあ、これが自分の絶対価値なのか? と自問自答してみても、よくわからない。
絶対価値に対してしか頭を下げないのか? と聞かれてもよくわからない。
よくわからないことには、こたえを出さなくていいと自分のブログにも書いたので、これはこのままにしておこうと思う。(「無記」についてのブログ http://www.zerohachimaru.net/blog/igarashi/2011/10/02/ )

ただ、頭を下げる人を冷静に見ていると見えてくることがある。
頭を下げようとしない人からも、同じようにいろいろなことが見えてくる。
お辞儀ひとつとっても、世の中見えてくることがたくさんある。



「社長! おはようございます!!」
「おぉ~。そんなに深々とお辞儀をしなくてもいいんだよ」
「あっ、すみません! 足もとに100円が落ちていて・・・・・」
「だっからよ~」






2011/10/19   企画と電車から考えた、すでにあるものに一喜一憂するということ

昨日の帰宅のとき、その前日に乗った電車よりも、新宿発が3分早いものに乗った。
そうしたらなんと! 家に着くのが、20分も早かったのだ!!

単にラッキーだったのか、"運"を引き寄せたのか・・・・・なんて思ってもみたが、冷静に考えると以前にも、この時間発の電車には乗っていたはず。
偶然にも、前日そしてたぶんその前日にも、その3分後の電車に乗っていたから、昨日のことがとても印象的だったのだと思う。


仕事上で企画を考えるとき、「企画というのは組合せだから」ということをよく言っていた。
まったくのゼロから、今までにない新しいことを生み出そうなんて考えてはいけない、ともよく言った。
だって、もし世の中にないまったく新しいものが目の前に出現したとしたら、人はそれを素直に受け入れると思う?
まず、見たことも聞いたことも、触れたこともないものには、警戒心をもつのが普通だと思うから。

仕事上で求められる企画というのは、例えば新商品を(もちろん、まったく今までこの世の中に存在していなかったものではない)、売り出そうとするとき、いかに人々にその商品を訴求し、いいイメージをもってもらい、手に取らせ、購入させるかを考えるわけだから、人が心地よく思ったり、安心して聞いてくれたり、信頼して購入するきっかけをあたえる内容でなくてはならない。
そんなところに、人が心から警戒心を抱くようなものを見せつけてしまっては、意味がない。

企画というのは、組合せなのだと思う。
さまざまな点と点を結びつけ、いかに目新しく斬新でユニークで心地よい組合せを提示できるかということ。
その組合せが、たったふたつの誰もが知っている結びつけだったら、きっと人の共感は呼ばない。
それは、面白くないとか、今までに見たことある、と言われてしまうのだ。

だから、よりたくさんの点を組合せて、しかもそれが複雑とは見せずに、さらにその点が思いもよらないものの組合せであったとしたら、人は興味をそそられ、意外性に驚き、企画として賞賛されるようになるのだと思う。


その「点」。
これは、世にすでにあるものたち。
この点自体が、まったく新しい存在であることはない。

点にしても、3分前の電車にしても、既存のものだ。
ただ、3分後の電車に乗ったことがなければ、3分前の電車に乗れば20分早くということは着くことは、実体験できない。
また、早く着くことをよしとするのか、ゆっくりでも座っていけるほうがいいとするのか。
もしかしたら、早く帰りたくない人だっているかもしれない。
そういう人にとっては、20分早く着くことが、いいことではないかもしれない。


われわれはどうも、"すでにあること"に対して一喜一憂しすぎているようだ。
それしか知らなければ、そのこと自体が"いい"とも"よくない"とも判断はつかないものなのに。

この前に書いた、「成功」と「失敗」だって、何を基準に成功、失敗と言っているのか、深く考えるとわからなくなってくる。
「今とてもつらい」と思っている人だって、別の立場の人から見れば「そんなもんで、つらいって言う?」ということだって、なきにしもあらず。
違った角度で見ることができれば、「あれっ? なんでつらいんだっけ?」となるかもしれない。

それは、心のもちよう・・・・・という言葉では片付けられない、もっと深い、人間としての何かがあるのだと思う。



「社長! ボクは目の前にある"締め切り"や"納期"に一喜一憂することをやめました!」
「だっからよ~!!」



2011/10/16   失敗は成功への近道!?

「マイクロ・スリップ(micro slip)」という現象。
ちょっとした(micro)したズレ(slip)を、繰り返し修正しながら最適な導線を発見しようとすること。

例えば、イチローのバッティング。
ボールにバットを当てるまでに、微妙にバットの軌跡を修正しながらボールを捉え、ヒットゾーンにボールを運ぶ。

コップをつかむという行為も、また同じ。
細かく見ると、指先はあっちへ行ったり、こっちへ行ったり細かい試行錯誤をしながら最適な動線を探す。そして、強く握るのか、滑らないようにはどのくらいの力でいいのかなどを修正しながら、実行するという。
繰り返し失敗しながら、運動精度は上がるものなのだ。


バイクが好きな人によると、コーナリングをするときには、コーナーを抜けた状態をイメージして曲がるという。
カーブに車体を傾けている状況を、一つひとつ細かく分解して、それを次から次へと実施していく感じ。
もちろん失敗すればクラッシュしてしまうので、繰り返し修正しながら、失敗をしないようにシミュレーションしてゆく。

コーナーを抜けていく自分を想定しながら、それに合わせていく・・・・・。
これって実は、未来に起こっていることに対して、今を合わせていく行為なのだと思う。


「時間は、未来から流れてきている」
ここでも少し前に書いたが、時間の概念は、過去から今へ、今から未来へ流れるもの、というのが一般的だったが、どうも最近は違うらしい。
未来と現在と過去は、一瞬にして存在する・・・・・、あるいは、未来から流れてくるらしい。


この次元に存在している我々、常に行う微修正と未来を想定した行動、これができれば目的に着実に近づけるのではないだろうか。



ビジネスの世界もよく言われること
「失敗はできるだけすればいい。ただし、致命的な失敗だけは避けるべき」ということ。

失敗は成功への近道
失敗を知らない者には女神は微笑まない
失敗のノウハウは成功への手引き・・・・・

失敗を修正しながら、成功への精度を上げていくのは、同じだ。
あと大切なのは、未来を想定したビジョン!



先日、亡くなった、スティーブ・ジョブズは、
アップル社を設立し、パーソナル・コンピュータを開発、マッキントッシュを作ったが、自分が作った会社から追放され、10年ちょいで復帰した。
その後は語るまでもない。
スティーブ・ジョブズが、自分の人生の断片でも、"失敗"と思っていたかどうかはわからない。
しかし、明確な自分のビジョンを持っていたからこそ、あれだけのことを実行できたのだと思う。
彼は、明確な自分の未来を想定し、そこに向かって進むだけだったのだ。


しかし、病に冒され、こんなに若くしてこの世を去ることを想定はしていなかっただろう。
肉体とは、まさにやっかいなもの。合掌




「社長! また仕事でクライアントを怒らせてしまいました!!」
「なに嬉しそうに報告しているんだ!」
「だって、失敗は成功への近道だって社長が・・・・・」
「だっっからよ~!」







2011/10/02   「無記」

「一言相契 万古不移」という言葉がある。

「一言が真理に契えば(かなえば)、その一言は永遠不滅である」という意味。
作家の玄侑宗久氏はこの言葉を、「人は決定的なひと言に出逢うことで、これまでの過去も想定される未来もガラリと更新することになる」といった。

先日、新大関の口上で琴奨菊は、宮本武蔵の五輪書を参考に「万里一空」という言葉を述べた。
これなどは、自ら何か言わなきゃと、選んだものであって、言葉に出逢ったというニュアンスとは異なるが、"地位を人がつくる"という例えがあるように、その言葉に自らを近づけていきたいという意思は感じられる。

自分のプロフィールなどに、座右の銘を記する人って意外と多いが、琴奨菊は関取でいる限り、この「万里一空」という言葉がついて回ることになるのだ。
自分のことを考えると、残念ながら座右の銘を聞かれるような状況になったことがないので、人に言えるような言葉というものを真剣に考えたことがない。
というか、そんなこと意識したこともなかったというのが正直なところ。
そうだったのに、先日ここに書いた、「無記」という言葉が、あれから気になって気になって仕方がなくなってしまった。
そこで、ちょっと調べた。

お釈迦様に、弟子たちが聞いたこと
1)この世は永遠か                 2)この世は永遠ではないか
3)この世は有限か                 4)この世は無限か
5)魂と身体は同じか                6)魂と身体は別のものか
7)如来は死後存在しないか           8)如来は死後存在するか
9)如来は死後存在せず、かつ存在するのか 10)如来は死後存在しないのでなく、かつ存在するのでもないか

この4種10個のというに対して、釈迦は「無記」としかこたえなかったという。これらが「十無記」。
また「十四無記」というのもあるようだ。

1)世は常であるか                2)世は無常であるか
3)世は常かつ無情であるか           4)世は常でも無情でもないか
5)宇宙は有限か                 6)宇宙は無限か
7)宇宙は有限でもあり無限でもあるか     8)宇宙は有限でも無限でもないか
9)如来に死後は存在するか          10)如来に死後は存在しないか
11)如来は死後存在せず、かつ存在するのか12)如来は死後存在しないのでなく、かつ存在するものでもないか
13)魂と肉体は同一か              14)魂と肉体は別のものか

あるかどうかわからないもの、真偽を決定できないことにこだわりすぎてはいけないという教えだという。
"そんなことに無駄な時間を費やすな"など、ろいろな解釈があるようだが、もっともしっくりきたのが、昔、茂木健一郎氏がたしかTwitterでツイートしていた、こんな内容。
「言葉で"こうだ!"と決めてしまうことは、考えること、行動することを、そこで止めてしまうことになる」
自らの生を駆動するエネルギーの有機体は、言葉で表現してそれで満足できるようなものであるはずがない、というものだった。

確かに、「無記」でいるかぎりきっと考え続ける。
決めつけることは、思考も行動もそこまで。それ以上、追求しなくなる。



現実の中では、決断をしなければならないことは数多い。
即断即決を迫られることも、しょっちゅう。
というか、生きることは決断の連続といっても過言ではない。
しかも、その決断が正しいのか間違っているのか、わからないままに進んでいくことも多々。

部下や社員の評価、付き合い先の人間関係、
仕事の内容、仕事の意義、
社会活動、政治判断、
身近なところでは、親のこと、友だち関係、パートナーとの関係などなど。

決断できない人間は無能という烙印を押されがちだ。
しかし、決断できないのではなく、決断しないのだとしたら・・・・・。

何が正解か、何が正しいのか、
それが世の中の真実なのか、真意なのか、理(ことわり)なのか、
わからないことには「無記」で通せばいいのだと、今になって少しほっとしている。




「社長~! "無記"のどこが一番しっくりきているんですか? もうちょっと具体的に教えてください!!」
「だっからよ~! 無記・・・・・!!」
「え~、そこで~?」


2011/10/01   祝! 増刷!!

9月の中頃に、このブログで紹介した『るるぶ長野善光寺』が増刷しました。
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 ↑
これこれ!

この手の旅行ガイドブック系ではめずらしいのではないかと思います。
でもよくよく実情を聞いてみると、どうも東北方面への旅行客が流れているとのこと。
少し複雑な思い。

ただ、長野県の北信とよばれる北のエリア。
とてもいいところです!

表題にもある「善光寺」をはじめ、今や圧倒的な人気を誇る「戸隠神社」、
すてきな街造りが成功し、素敵なコンテンツが揃っている「小布施」、
豊かな自然が魅力の「飯山」「志賀高原」、そして「渋温泉」「別所温泉」「野沢温泉」などの温泉。


特に、「善光寺」の取材は、御開帳のときからはじめ、「絵解き」や「七福神めぐり」など、ほかにない新しい魅力を紹介しています。

ぜひぜひ、長野県の北信エリアに足を運ぶ際には、ご参考に!