2011/09/24   成功の法則の奥にあるもの!?

先日、ある高名なかたの講演会に参加させていただいた。
テーマは、「幸せと豊かさを実現する5つの秘訣」
話しは面白く、会場に詰めかけた多くの人もたいへんに好意的で、あたたかい雰囲気の中、会は進んだ。

秘訣1
正しい行いをすること
(自分の良心が導く道を生きること)

秘訣2
自分の情熱を発見し、情熱的に生きること
(自分の声に耳を傾けることが大切)

秘訣3
すすんで他人に仕えること
(他人を幸せにすると、与えたものがかけ算になって返ってくる)

秘訣4
自分の過ち、他人の過ちを許す
(過去の過ちに縛られていてはいけない。、怒りは幸せを導かない)

秘訣5
人生から争いごとを避ける
(争いと幸せは共存できない)

例え、どのような厳しい状況にあろうが、自分の物語は無限大に展開することができる。
その状況を怒りのストーリーにするか、ハッピーな物語にするか・・・・・。
チェンジストーリー→チェンジマインド
これも、幸せを実現するためのひとつの方法だ。

なるほどと思い、これがよくいわれる「引き寄せの法則」なのかと納得した。


しかし一方で、ノドに引っかかる小骨のような小さな違和感があった。

前回のブログに書いた、すべての事象は「因果応報」ではなく、日ごろの善行は自分に戻ってくることはほとんどなく、巡り巡って知らない人にもたらされるものである。これを、「ご利益(ごりやく)」といい、たまたま自分のところに巡ってきた場合を「功徳(くどく)」という―――という話し。

「他人を幸せにすると、与えたものがかけ算になって返ってくる」
誰もが素直にそう信じたい。
でも、仏教では、なかなかそうはいかないものなんだよと説く。
どうしても、仏教的なほうに共感を覚えてしまうのだ。


最近、仏教の教えの中で興味をもったものに、「無記」がある。
すごく説明するのが難しく、まだ感覚的にしかつかめていないのだが、
大辞林には「釈迦が他の諸宗派からの形而上学的な質問に答えなかったこと」とある。
大辞泉には「善でも悪でもない中立的な性質」「答えるに値しない質問を無視すること」とあるが、どうも違う。

例えば、霊魂に対して、あると決めてしまうと"知の体系"は閉じてしまう。ないと決めてしまっても、それは閉じてしまう。そこで、「無記」にあるように答えないと、閉じずに開いたままでいる。
科学なら科学的でないもの、宗教なら宗教でないものに向かって開く。だから、答えない。
それは、"ある"といっても"ない"といっても、論理的に矛盾が起こってしまうのだ。
だから答えないのだ。閉じさせないためにも。


自分の経験の中で、とにかく何にでも結論を出さなければならないと思っていた。
たぶん、そう教育を受けていたんだと思う。
でも、今は結論を出さなくてもいいことって、実はたくさんあるというのが実感なのだ。

結論が出ないことは、考えても仕方がない・・・・・といわれてしまえば、そうかもしれないが、考え続けなければ、解き明かされないことというものあると思う。


宇宙の果てはどうなっているのかとか、光よりも早い素粒子は波動なのか粒子なのかとか、神はとか、時間は未来から流れてくるのではないかとか・・・・・考えるの好きなんだよなあ。



「社長! ボクの評価"無記"でお願いします!!」
「んっ? それは、答えるに値しないから考えてもし方がないという宣言か?」
「えっ、いや、その・・・・・。今すぐには、結論を出さないでということで、よろしく・・・・・みたいな」
「だっからよ~!」






2011/09/17   利益とご利益と縁起

『るるぶ』の仕事を随分とさせてもらっている。
長野の善光寺でおこなわれる7年に一度の御開帳。前回の2009年の御開帳に向けての『るるぶ長野善光寺』から制作に携わり、今もこの『るるぶ』をつくらせていただいている。
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これが今、書店などに流通しているものだ。


この制作の過程で、善光寺と戸隠神社を長い時間取材させていただき、いろいろなことを勉強させてもらった。
「ご利益」や「縁起」という言葉に、頻繁に接するようになったのもこのころからだ。

「利益」という文字を見れば、「りえき」と呼んでいた。
営業をしていたり、会社を切り盛りしていれば、「りえき」とよんでしまうのは仕方がないこと。
神社仏閣と触れる機会が増え、ようやく「ごりやく」とよむことがしっくりきだした。


その「利益(りやく)」、仏教の言葉である。
日ごろからの行いというのは、自分に戻ってくることはほとんどなく、巡り巡って知らない所で知らない人にもたらされるもので、それを「利益(りやく)」といい、たまたま自分のところに巡ってきて、自分に結果をもたらす場合だけを「功徳(くどく)」というのだそうだ。


「えっ!? いいことをしていれば必ず自分にいいことが戻ってくるのではないの?」
誰もがそう思うのではないだろうか。
そうなのですよ。戻ってこないというのがもともとのお釈迦様の教えなのだそうです。


いかし、逆も言える。
「何か悪いことをしたから、こんな酷い目にあってしまった」
これは、ある意味仏教的ではないということになる。
決して、「原因」→「結果」の一対一に対応するものではなく、「因」→「果」もあれば、「果」→「因」もあり、さらに因が果になり、果が因となり複合的に絡まり合って事象が成立するものなのだ。
そして何とこれが、「縁起(えんぎ)」なのだそうだ!

「縁起」とは、「因縁生起(いんねんしょうき)」の略で、
結果というのは「因」と「縁」よって起きるという考え。


仏教的には、
「日ごろの行いがいいから、うまくいっている」のではなく、
「おかげさまで、このことができているのは、ご縁に出会ったから」なのである。
深い・・・・・
「ご縁を大切にする」というのは、「関係性を大切にする」ということ。
良いことも悪いことも含めて積極的に関わろうとすれば、新しい扉は開かれる。
しかし、その関係性には執着してはいけない。
奥深い・・・・・



「利益(りえき)」は直接的だ。
収入から支出を引いたもの。
なんらかの商品の営業をして、その売上げが自分のところには来ないで、知らないところで売上げになる、なんてことはあり得ない!
売上げ→利益が出る、はあるが、利益が先で→売上げが後、もあり得ない。


ビジネスのスタイルというのは、反仏教的な行為なんだろうか? なんて考えてしまう。しかしなぜ、同じ漢字なのだろう?
まったく不可思議だ


一方で、「因果応報」というのも仏教の考えのひとつ。
釈迦の教えが難しすぎて、省略してたら、こうなっちゃいました。
といったところなのか?
単純化しすぎ、省略化しすぎ・・・・・のような気がする。



「社長! 釈迦の教えに従い、キャバクラへ行っておねえちゃんたちとの縁を広めてこようと思うのですが」
「・・・・・だっからよ~!」









2011/09/10   「自分の周りはバカばかり」は自分で望んだ世界

先日、通勤新幹線の中で延々としゃべり続ける女性の前の席に座ってしまった。
宇都宮から大宮までの約30分間、みごとに途切れることなく、そのおばさんはしゃべり続けた。
大宮駅で自分は乗り換えたが、きっと上野駅か東京駅まであのしゃべりは続いたことだろう。

なぜそんなに気になったのかというと、その話の内容が、ず~っと親戚や自分の周りにいる人たちの悪口だったからだ。
みんな「バカ」で、「世間知らず」で、「恥知らず」で、「悪人」で、その中にいて自分だけは常によい行いをしているのだけれど、誰も理解してくれない・・・・・。そのバリエーションの豊富さは、そんじょそこらの物語よりもドラマチックなほどだった。
(別にその女性はオレに話していたわけではないけど、どう考えても誰かに聞かれていることを前提に話していたと思うんだよなあ。というか、世間に自分をアピールしているというか・・・・・)

話を聞かされ(?)て思ったのは、
"あなたのその世界は、自分で望んだ世界であり、自分設定した世界なのだ"
ということ。

きっと、周りの「バカ」や「悪人」は自分で引き寄せ、それに囲まれている自分の状況も自分でつくった世界なのだ。



だから、仕事環境や自分の人生が、かの女性のようではいたくないと思ったら、
「自分の周りには、尊敬できる人、気持ちのいい人、優しい人、できる人、気がつく人、発想の豊かな人、豊かな知識をもっている人、一緒にご飯を食べたくなる人、飲みに行きたくなる人・・・・・が多いんだよね!」
と言い続けていればいいのだと思う。

言い続けていれば、そんな人たちが集まってくる。
必ず・・・・・



「社長! ボクの周りには、美人でグラマーで頭が切れて優しくて、そんな女性が多いんです・・・・・言い続ければ、何とかなりますか?」
「・・・・・だっからよ~!」





2011/09/07   もうひとつの「2」――「ダブルバインド」

前回、「脳のデュアルタスク」のことに触れた。
そのついでといっては何だが、「2」繋がりで、「デュアル・バインド」のことをちょっと・・・・・。


「デュアル・バインド」とは、二重拘束のことで、人を追い詰めて精神を失調させるコミュニケーションパターンのことをいう。

「デュアル・バインド」では、
メッセージを間違えて解釈すると罰せられるが、正しく解釈しても罰せられてしまう。


例えば、スポーツのゲームで敗れてしまった選手たちに監督が言う、こんなケース。
「どうして負けたかわかるか?」

この問いに対して、選手たちの答えが間違っていれば当然、罰せられる。
しかし、仮に正しく答えたとしても、罰せられる。それは、
「なぜ、負ける理由がわかっていながら負けるのだ!」
となるからだ。

選手たちは、どのように答えても罰せられることとなる。
受ける側は精神を失調させざるを得ない・・・・・。



しかし、これを利用するパターンもある。
「権力者」
強力な上下関係を打ち立てようとする者にとっては、効果的な方法ではある。


「なぜ、こんなわかりやすい仕事でミスをするんだ!?」
―――こんな発言をする上司にあったことないだろうか?
―――こんな発言を部下に言ったことはないだろうか?




「社長! どうしてウチはボーナスがチョビットしかでないんですか?」
「それでオレを精神的に追い詰めようとしているわけ? キミがもっと稼げば何とかなる問題かもね」
「うっ! 自業自得・・・・・」
「だっからよ~!」


2011/09/03   「ふたつの仕事を同時にこなすのが脳の限界」!?

前のHPのときのブログでも少し書いたが、

「人間の脳はデュアルタスクが限界」らしい。

昨年、フランスの研究者が発表したというニュースだったが、
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1004/20/news006.html

人間の脳は、同時にふたつのタスクを処理することはできるが、3つ以上になると脳の処理能力を超えてしまうという内容だった。

なんでも、脳の「前頭前皮質前部」が、"同時に複数の目標を追求する能力を実現している部分"であり、ふたつのタスクが与えられると、処理能力を左右の脳に振り分けるのが確認されたのだという。

「人間の認識能力は基本的に二重構造となっている。人が二択を好み、三択以上になると難しいと感じるのは、前頭葉機能が3つ以上のタスクや目標を同時に処理できないことを示している」といったものだった。

前のブログでは、
今の世の中、白黒はっきりつけさせたがる傾向があるが、日本には昔から曖昧の思想があり、その中間にある灰色も許容する―――といったことを書き。
さらに、右脳と左脳が同時にふたつ以上のことを処理しきれない状況が続いたとき、「しゃあないな、では真ん中あたりで・・・・・」と、柔軟に対応するになるのでは?
それが進化なのでは?
そういえば、第三の目というのも・・・・・進化のひとつか?
みたいなことも書いた。


じゃあ、仕事ではどうなのかを、その後ずっと考えていた。

同時に進行させている雑誌や企画が、"ふたつ"なんてことはない。
企画中のものを含めると、10は下らない。
実作業を並行しておこなっているものも5つ以上ある。
これらのすべてに全勢力を傾けて考えていられるかというと、確かに違うかもしれない。

あの記事を読んでからは、同時に集中するのはふたつまでにしようと、自分で決めている。
ある程度考えがまとまってきたら、前のタスクをキレイに脳の奥の方にしまい込んで、次のタスクを前頭葉に出して考えるようにしている。
どうも、脳の真ん中あたりで考えることもまだできなさそうだし、眉間のあたりにありそうな気もする第三の目もまだ活発に働いていないようなので、仕方がない。
時にはふたつのことしか処理できないなら、それを何度も繰り返そうと思ったのだ。
で、完璧にできているのかは、わからない。でも、何となく自分には合っているし、できているような気もする。

ひとつ確実にわかり、実行していること。
それは、新人君などに仕事を頼む場合、ふたつまでにするということだ。
大きな組織にいる人には、きっとわかると思うが、理能力を超えてしまって脳がフリーズしている人って、外から見ているとわかるでしょう?
きっと、3つ以上のタスクが脳に課せられてしまっているのですよ。



「社長~! 脳が処理能力を超えていると悲鳴をあげています!」
「今、抱えている課題を言ってごらん?」
「え~っと、昨日の夜のケンカはボクに原因があるのか彼女のほうにあるのかと、昼飯はどこに食べに行こうか・・・・・」
「それでふたつ・・・・・おしまい? だっからよ~!