2012/05/02 森 達也著『オカルト』
オカルト」という言葉を久しぶりに目にした。
森 達也著『オカルト』。何ともストレートなタイトル。
「オカルト」って、最近聞かなくなってきた言葉のひとつだったのではないだろうか。
意味合いの延長線上には「スピリチュアル」という言葉があるのかもしれない。
しかし、「オカルト」という字面からはあいかわらず"怪しげ""うさんくささ"がプンプンと漂ってくる(いい意味で!)。
『オカルト』には、スプーン曲げの清田益章や秋山眞人などが登場する。
ほかにも出てくるのは、超心理学者、心霊研究者、陰陽師、UFO観測家、臨死体験者、そして最後には、TVや著書で話題のメンタリストDaiGo......。
科学的な根拠があかされないが、それでも否定しきれない世界......。
昔から思っていた。
霊界があるのかないのか、幽霊がいるのかいないのか、UFOは存在するのかしないのか......こういった「オカルト」話しは、後々には科学的に証明されるだろうと。
天動説が主流だった時代に、当初は地動説が受け入れられなかったように、時代が進めば何が真実かは少しずつ明らかになってきたように。
しかし、
スプーンを曲げられるとして、それはなんの役に立つの? ってずっと思っていた。
スプーンが曲げられることで、車体の板金技術に活かせるとか、宇宙ステーションでの船外活動を念じるだけでできるとか、そこまでくれば何となくわかるんだけどなあ。
どうも現在の「スピリチュアル」との違いを感じるのは、その辺なのかもしれない。
今の「スピリチュアル」は、割と具体的に"救われたい""楽になりたい""よりよくありたい"といった具体的な目的があって、そのために存在するもの......なのかな。
でも、そうなると「新興宗教」との境が微妙なんだよね、きっと。
以前このブログにも書いたが、仏教の「無記」という言葉が好きだ。
あるかもしれないし、ないかもしれない。だから決めつけずに、結論は出さない。
決めつけてしまうことは、知の体系を閉じてしまうことになるから。
閉じずに、開いたままでいる。
当分、これらの世界には寄り添っていくのだと思う。
実は、スプーンを曲げたことがある。
幽霊は見たことない。
UFOを見たような気がするが確証がもてない。
人の肩こりは治せたことがある。
でも、勘違いかもしれない。本当かもしれない。
さてさてこれから何を経験できるやら......。楽しみだ。
2012/01/31 3分後の電車に
実家のある宇都宮から、事務所のある新宿まで通ってる。
俗にいう、新幹線通勤。
もうすぐ2年になる。
宇都宮から新幹線で大宮乗り換え、埼京線か湘南新宿ラインで新宿に辿り着く。
以前、帰るときに3分前の電車に乗ると、20分早く家に着くと書いた。
ところが先日、通勤の時に、3分後の電車に乗ろうとしたら、いつもより15分早く新宿に着いた! ということがあったのだ!!
新幹線からの乗り換えは、埼京線の方が近い。
だからいつも、埼京線に乗り換えていた。
その日は、湘南新宿ラインに乗ろうと、ふっと思った。
今まで利用しなかったのは、埼京線の方が3分早く大宮駅を発つからだ。
普通は、早く出発する方に乗ろうとするだろう。
それがなぜだか、その電車に乗ろうと思い、わざわざ遠いホームに向かった。
そうしたら、ホームの表示が十数分遅れていた湘南新宿ラインが入線するとのこと。
ジャストで乗り込めてしまった。
電車は、遅れを取り戻そうと、走る走る!
なんといつもの埼京線に乗るよりも、15分も早く新宿に着いた。
なんとも予想のつかない未来。
選ぼうと思ってもままならない過去と現在。
なぜだかその時、過去と未来は繋がっていると感じた。
というか、未来から過去に繋がっていると思ったのだ。
その時突然、
時間は、過去から未来へ流れるものではなく、ある瞬間に同時に現れるものなんだと感じた。
だれもが早く目的地に着きたいと思う。特に朝の通勤は。
しかし、ちょっと余裕をもった瞬間に、本当に早い選択ができたのだ。
「急がば回れ」←→「善は急げ!」
どうも片方だけしか知らないとダメなような気がする。
両方の感覚をもっていればこそ、より望む選択ができるのだろう。
どちらか片方だけに固執していては、開けないんだおるね。
「社長~! 朝出るときにウチの猫の調子が悪くなって・・・・・で、駅まで行く自転車が・・・・・で、車両故障とやらで・・・・・、"急いては事をし損じる"とか思いまして、遅れてしまいました」
「だっからよ! "早めのパブロン!"っていうだろう」
「?????」
2012/01/03 変わらなきゃいけない年なのだ
昨年の目標のひとつに「120冊の本を読む」というのをあげていた。
昨年末、数えてみたら114冊だった。
目標には達さなかったが、いいタイミングでいい言葉にたくさん出会えた。
特に、ビジネス系の本ばかりを読んでいるワケではない。
エンターテイメント系や歴史物、ファンタージなど、はっきりいってジャンルはバラバラ。
でも、自分の琴線に触れるなにかには、ジャンルに関係なく出会えた。
年末に読んだ、内田樹著『呪いの時代』もおもしろかった。
その中で、考えさせられた内容のひとつ。
自民党時代の首相の話が書かれている。
その首相には、実現すべき政治的ビジョンがなく、情理を尽くして有権者に伝え、その同意と支援を取り付けるという発想がなかった。
彼の政策はすべて、
「すでに起こってしまったトラブルやミス」の「尻ぬぐい」であり、
すでに現出してしまった「困ったできごとへの対処」しか語らない。
自民党の政治のみならず、今の民主党の政治も大同小異。
政治家の発言を注意して聞いてみるとよくわかる。
自分の、あるいは政党の政治的な主張をしているのか、
今起こっていることに対する対処だけを言っているのか(あるいは、今起こっていることへの批判だけをしているのか)・・・・・。
読んでおもしろかったのは、"なるほど"と思ったからだけではない。
これは、政治のことのみならず、会社の経営にも当てはまると思ったからだ。
小さな会社でも経営していると、銀行さんと付き合うこともある。
そこで必ず言われれること。
「当期、これだけの売り上げがあったわけだから、次は10%アップぐらいが目標ですね」とか、
「前期、これだけマイナスだったから、今期はここは抑えて、これだけプラスにしなきゃいけないですね」。
そして、その数字の目標に対しての、できるだけ具体的な対策を求められる。
当たり前だといえば当たり前なのだが、社長として陥りがちなこと、それは、
「対策、対処しなければならないことを社員に強いてしまう」こと、ではないだろうか。
状況が厳しいから・・・・・と社員に我慢を強いてはいなかったか?
赤字の時のツケの尻ぬぐいをさせてはいなかったか?
その先にあるべき"ビジョン"を、社員と共有できていたか?
批判していた政治家と同じことしかやっていないようじゃ、恥ずかしいではないか。
社員のみなさん、すみません。
そんな経営者だったかもしれません。
会社は、営利を目的とし、経済活動を推進するためにあるもの・・・・・である。
しかし昨年、我々は、自然の大きな激震のあと、「人の幸せよりも、経済活動を優先させる愚かさ」をたくさん目の当たりにしてきた。
そして、どうもそれは違うんじゃないかと思い始めた。
たぶんもう、今までの考え方を変えなきゃいけない時期なんだと思う。
"奇跡の復興"を遂げた20世紀の日本を振り返り、
「やっぱり物づくりでしょ日本は」と言っていること自体がもう古い。
物づくりで急成長していた時代には、誰も"物づくりが日本を救う"なって言ってはいなかった。だってそれはその時代には、当たり前のことだったから。
"物づくり"なんて言い出すころにはすでに遅い、手遅れなのだ。
20世紀を振り返って、古き良き時代を取り戻そうというのは、ありえないことなのだろう。
きっと、それでは乗り越えられないのだ。
21世紀には、新しい価値観、人のつながり(組織やコミュニティのあり方)、考え方が必要になってくる。それに少しでも早く近づき、自分のものにしなければならない。
「社長! ご決断を!!」
「だっからよ~!
2012年からは、21世紀型の社長になるのだ!!」
2011/12/23 体の声を聞くということ
今年の念頭に、「自分の体の声をきちんと聞くこと」を目標のひとつにした。
それは、年齢を重ねるごとに、自分の体に随分と無理を強いてきただろうなあと思ったからだった。
きっかけは、40代のちょうど厄年の時の、アキレス腱断裂。
その十年後、50代の前半に突然、眼底出血を起こし手術をするといったことがあったからだ。
前触れとか、前兆とかを感じることができていたら、そんなことにはならなかったのではないかとずっと思っていた。
具体的に何をしたかといえば、太極拳を続けたことと、ヨーガの資料を取り寄せたことくらい。
iPhoneに、座禅のアプリをダウンロードもしたっけ・・・・・。
まだ、自分がイメージする体の声を聞く」までには至っていない。
今年もままならなかったなあ、なんて思っていたら、ちょうど読んだ本の中に「自分の細胞と話をする感覚を身につけた」と書いてあった・・・・・。
『死なない練習』 長友啓典著
エディトリアル・広告デザインの御大、長友さんの著書だ。
長友さん、昨年、食道がんの手術をした。
手術は成功し、今は現役復帰している。
この本には、今までいかに暴飲暴食をしてきたか・・・・・から、がんが見つかり、手術、入院、復活までのことが書かれている。
ちょうど先日、新しい仕事のお願いで久しぶりにお目にかかったが、以前よりも一層温和になられた印象だった。
でも、仕事では相変わらずキレがよく、いいアイデアをちょうだいした。
その著書の中に書かれていたこと、引用する。
入院してええ経験になったと思うことは、自分の細胞と話をする感覚を見つけたことや。
身体の「司令塔」をやっているのは、このオレや。医者でもない、薬でもない。
自分の「気」が、自分の体をつかさどっているという感覚の発見や。
ちょっと前までは、自分だけで味わっていた食事を、細胞にも喜んでもらうためには、どうしたらええかということを考えるようになった。
年取っても、新しい細胞は生まれてくる。そいつらは、ボクがこれまで何食べてきたか知らないわけや。
ボクの「暴飲暴食」の過去を知らない純粋な細胞たちなんやと思うと、あまりムチャなこともできんわな。
手術のあと、管を一本一本はずしていくたびに、細胞がよみがえっていくような感覚を知った。
親方であるボクの方から話しかけんと、細胞の方でも聞く耳は持たんと思う。
人と比べたり、見栄を張ったりする、そういう感覚を内側に向けてみると、細胞がやっと気づいてくれた思て元気になっていく気がする。
これ以上のことは、ボクと細胞のあいだの秘密・・・・・
長友さんは、自分の体と自分の細胞と日々話をしているのだろう。
毎朝1時間の"アササン"を欠かしていない。(アササン=朝の散歩ね)
食事にも随分と気を遣っているようだ。
「酒よりも自然治癒力がほしい」ともいう。
ただ、細胞とうまく話ができているから、仕事にも復帰でき、好きなゴルフも再開でき、またおいしいものを食べられるようになったのだろう、きっと。
長友さんの会社は「K2」という。
相棒の黒田征太郎さんと会社を作ったのが1969年。
今までに100人を超えるデザイナーが、K2から飛び立っていったという。
"社長"の大切な仕事のひとつは、常に健康でいること。
病気がちで、会社を休みがちな社長って、あまりいない。
学生のころ、体育会系で体力に自信があると、ついつい無理をしがちだが(無理というのは、自分の体の声を聞きもしないでがむしゃらに働くこと)、それは社長の仕事をひとつ放棄していることと同じなのかもしれない。
早く、自分の体の声を聞けるようになろう!
来年といわず今すぐにでも達成したい目標のひとつに設定!!
「社長! "来年のことを言うと鬼が笑う"といいますが、年末のこんな時期になっても来年の話をしたら鬼は笑うのでしょうか?」
「だっからよ~!」
来年になったら、これをしようとか、あれをこう変えようとか思うんだったら、今から、やれよ! ってこと。
とても大切だと思ったことは、「これが終わったら」とか「区切りが付いたら」とか、「年が明けたら」じゃなくて、すぐにでも実行しなさってことなんですね。
2011/11/27 「100匹目の猿」と「シンクロニシティ」
ゼロハチマルを立ち上げる前、プラスキューという会社にいた。
その社長は、自分の人生の中での大恩人で、編集という仕事に就くことができたのも、その社長が拾ってくれたからこそなのだ。
感謝してもし尽くせない・・・・・。
その、プラスキューにいたころの話。
あるとき、すごく面白い企画を考えついた。
もうウキウキ気分で、社長に話しに行ったら、
「お前が考えついた時点で、世界中で100人ぐらいの人が同じようなこと考えているんじゃない」と言われた。
このあと何度も、同じようなことを言われるのだが、最初は正直ちょっとムカッときていた。
「でもさ、それを形にできるのが何人いるかってことじゃない」とか
「自分なりのアレンジを加えれば、世界で唯一の企画になるんじゃないか」
などなど、いろいろなことを考えた。
そういった考え、ある意味正しく、ある意味正しくなかった。
今は、"世界で唯一の企画"なんてものに、どれだけの意味があるのかが何となくわかるし、"面白い企画"の意味も随分と変わってきた(自分が面白がっているのか、人が面白がってくれるのかとか。その企画自体にどんな意味が込められているのか・・・・・などなどね)
ただ、その当時のことを思い返してみても、同時にいろいろなところで、同じような企画を考えつくということって、本当にあると思っていた。
「100匹目の猿」という話がある。
日本の島に生息している猿が、あるときイモを海水で洗って食べた。
それを真似をする猿が次々と現れ、ある一定数を超えたとき、その島から遠く離れた別の島でも、同様の行動を起こす猿が現れたというもの。
お~なるほど、あり得そうと思わせる話だが、
実際には、裏付けのない作り話だったことがわかっている。
「シンクロニシティ」もそう。
共時性や、意味ある偶然の一致と訳されているが、
心理学者ユングによって提唱されたもので、事象・出来事というのは必然的に起こるだけでなく、同時発生的に偶然によっておこることがある、という考え。
実は、シンクロニシティの例え話もあるのだが、後年、それも作り話だったという"オチ"があるらしい。
ただ、「100匹目の猿」と違って、どこか「シンクロニシティ」はありそうだなと思わせるのは、それが"人間の話"だからなんじゃないかと思う。
なんてことを考えていたとき、「共通性とか偶然の一致というのは、人間がかってに思い込んでいるだけである」という話しを聞いた。
人は、共通のところだけを覚えていて、それだけをピックアップするから「共通性」とか「偶然の一致」が強調されるというのだ。
たしかに、「血液型B型! しかも獅子座!! えっ七赤金星!!! すごい偶然いっしょだ」と言われても、いやいや3つしか合ってないし・・・・・といってしまえばそれまでだ。
当然、違うところのほうが多いのに決まっている。
「共通性」は、人だけに限らない。
激動の今の時代は、江戸末期から明治維新に向かうころと多くの共通性がある―――といわれても、確かにあるかもしれないけど、違うところだってたくさんある。
じゃあなぜ、「シンクロニシティ」のようなことを心理学者が提唱し、日常の中で自分でも「ありそう」と感じさせるのか。
それはきっと、人自身がそれを望んでいるからなのだと思う。
偶然でもいいから共通性をもっていたい
人が人である所以なのかな・・・・・
でも、直感というかシックス・センスというか何かが、「ないかもしれないけど、あるかもしれないよ」とささやいている。
「無記」―――今決めてしまう必要はない。
わかるときには、必然的にわかるから・・・・・
「社長! 前回、<つづく>で終わったかと思うのですが、内容が続いていないような・・・・・」
「だっからよ~!」
2011/11/22 スピは進化系?
前回、「言葉は、自分の体をコントロールするとても有効な方法で、
それは大脳皮質を使って体をだます技術だ」と書いた。
なぜここで突然、脳の話が出てきたかというと、言葉を司っているのが大脳皮質であるというのが重要だからだ。
また太極拳の話になって恐縮だが、その日太極拳を始める前に必ず「気功」を行う。
気功の中でもまず、立禅から始める。
座禅は座って行う禅。
立禅は立って行う。
もちろん、修行僧でもなければ禅僧でもないので、
真似事かもしれないが、それでも集中し、爽快にもなる。
この立禅。
スタートしてすぐには、いろいろなことを考えてしまう。
「今日の昼メシ何にしようか」とか「やり残した仕事、何から手を付けようか」とか。
次から次へと頭に浮かんできてしまう。多分言葉になって。
この言葉がくせ者なのだ。
座禅や瞑想を一番邪魔するもの。
それが言葉。
そして、この言葉を発しているのが脳。大脳皮質、大脳辺縁系だ。
人類は言葉によって進化した。
ところが、この進化を促した脳の部分が邪魔をして、「気」がうまく流れなくなってしまうのだ。
では、その働きを止めることができたとしたら・・・・・。
できるのだ!
その方法、ひとつは呼吸法。
立禅をしながら意識して行うのが、腹式呼吸。
吸気よりも、はく息を細く長く行う。
意識を呼吸に集中することで、やがて頭の中から言葉は消えてゆく。
別の方法としては、リズミカルな運動を続けることも効果的だという。
ようするに、言葉が浮かばないほど連続した運動。
エアロビとか、ジョギングとか、早めのウォーキングもそうらしい。
では、ここで大脳皮質の働きを抑えたとき、今度はどこが活動を始めるのか?
それは、脳幹だという。
原始的な脳、生命の根源といわれる脳幹。
人は言葉を得て進化してきたのに、「気」をめぐらすとか、瞑想するときには、新しい脳の動きを抑制し、古い脳を活性化させなければならない。
別に、禅とか瞑想とかは退化を促進するものではないだろうから、きっと何か失ってはいけない大切なことを呼び戻そうとする、本能的な行動なのだろう。
と考えると、前回言った、「大脳皮質を使って、体や行動をコントロールする」というのは、進化系の高等技術なのではないか!?
おお〜!
スピリチュアルは、進化した人類の新しい生きる術なのかもしれない!?
<つづく>
「社長! つづくって初めてですが?」
「だっからよ〜!」
2011/11/21 お経とスピリチュアルの共通性
最近、スピリチュアル系の雑誌の編集などをやらせていただいていることもあり、ウチの事務所はスピがかった会話がよく飛び交う。
引き寄せの法則というのは、随分と一般的な言葉なのだろうか?
今や身近に飛び交う言葉なので、どうも世間との距離感がよくわからない。
そうその、"世間との距離感"を大切にしておきたいと常々思っているのだが、意外な方向から共通点が垣間見えたりすると、昔からあったことなのかとか、本当にあるのかもしれないと思うことがある。
例えば、「思いを言葉にだせば実現する」といったもの。
臨済宗の僧侶であり、芥川作家の玄侑宗久氏が書いていた。
お経や真言の中にある言葉は、「~になりますように」ではなく、「~が成就した」という現在完了形なのだそうだ。
言葉は、自分の体をコントロールするとても有効な方法で、それは大脳皮質を使って体をだます技術なのだという。
自分の能力をどれほど発揮できるか、それは自分をどれだけおだてられるかにかかっている。
おだてるのに必要なのが言葉。
しかも、完了形。
さらに、声に出せばなお効果的になる。
自分の声が、自分の脳に影響を与えるのだそうだ。
神社仏閣に行ってお参りするとき、「~なりますように」とお願いするのが一般的・・・・・というか、そう教わってきたような気がする(誰に教わったのだろう?)。
お参りも、祈願も完了形にすることで、より効果的=実現に近づくといわれている。
んんっ?
神社仏閣でのお参りは、神や仏への祈願。
大脳皮質を使って能力を発揮させるのは、たしか瞑想の話しだったような・・・・・。
してみると、神や仏は脳の中に存在するのか???
そういえば、心は内蔵に宿るという話しを聞いたことがある。
心が内蔵に・・・・・、何とも興味深そうな話し。
これはこれでまた別の機会に
「社長~! 原稿がうまく書けました!! 担当した書籍がベストセラーになりました!!!」
「さっそく実践か。もっと脳を使って体をだまし、能力を発揮させなさい! そうすれば"ボーナスがドンと出せました!"」
「社長~~! 本当にお願いしますよ!!」
「だっからよ~」
2011/11/05 休んだあとにくるもの
毎週土曜の午前中に太極拳をやっている。
太極拳といっても、健康太極拳だから本格的武術ほどは激しくない。
厳しくもない。
もう随分長いことやっているから、ひと通りの型は憶えている。
次はどういう動きか、考えなくても体が自然と型をなぞっていく。
考えなくても動けるのだが、やればやるほど師範との動きに、微妙な違いがあることに気づく。
このところずっと、"股関節をゆるめる"という大命題ができなくて、教室でも「できねぇ~」とつぶやいたりして、落ち込んでいた。
先月から仕事がたて込んできたこともあり、2週続けて休んだ。
今の教室にきてから休むのははじめて。
しかも先月は、教室自体の休みもあって、5週のうち2週しか参加できなかった。
先週も休みで、久しぶりの稽古だったのだが・・・・・。
なんだか、動きがよかったのだ。
実は最近、自転車で転けて、肩と股関節の外側を強打し、
今も少し痛みが残っているのだが、歩くときも時々ぎこちなくなったりしていたのだが、それなのに自然に動けたのだ。
しかも、"股関節をゆるめる"感覚が、すっと入ってきたような気がしたのだ。
なんだ、なんだ、これは!?
スポーツとか武術とかで、練習を積んで積んで、鍛えに鍛えて、技を習得しようと何度も何度も繰り返して、でも最後の壁をなかなか乗り越えられないときがある。そんなとき、いったいどうするか。
「一度、休みなさい」と言われたことがあった。
休む効果。
久しぶりに実感した。
休むことが、物事が好転する要因になる、ということに対しての裏付けを持っているわけではない。
あくまで自分の感覚だ。
ただ以前から感じているのは、ひとつのことに煮詰まったときには、そのことからまったく離れた何かをやったり考えたりしたほうが、煮詰まりは解消しやすいということ。
企画を考えるときも一緒だね。
ビールの企画を考えるとき、ビールのことばかり考えていたら、"おいしい"企画はできないってこと。
だけどこのあと、本当に自分のものにするために、つかまえたと思った感覚を、何度も繰り返し実感して体感して、意識してできるようにならないといけないんだけどね。
いただいたような気がした、かすかな感覚を大切にして、それに磨きをかけねば!
「社長~!」
「ちょっと待った!! 企画に煮詰まったから休ませろっていうんじゃないだろうな?」
「あっ、ずぼ・し・・・・・」
「だっからよ~!」
2011/10/29 3分前の電車で
何度か前のブログに、3分前の電車に乗ったら、20分も早く家に着いたということを書いた。
本当はそこにある事実でも、知らずに利用もしないと、その人にとっては事実ではなくなってしまう。
知っていれば、より選択肢は増える。
知らなくても、いや知らなければ知らないんだから、実際にはどうってことない。実はね。
で昨日、その3分前の電車に乗った。
実際は、事故の影響で少し送れていて、本来3分後に出る電車よりも遅れて出た。
すると、緊急停止!
また事故の影響で止まるとのアナウンス。
本来、3分後に出て、20分遅れでしか家に着かない電車の方は、順調に走ったようだった。
実際に家に着いたのは、いつもより2時間も遅い時間だった。
世の中、ガチガチに決まったことってないんだなあと思った。
U山によると、なにかの啓示だという。
でも、そんなこともあるんだな、くらいに思っていたい。
できれば。
そういえば、前日にはチャリでコケている。
考え事をしていて、しかもかなり疲れていたし、
しかも、避けられないシチュエーションだったし・・・・・。
あまりにも痛みが引かないので、昨日、病院に行きレントゲンを撮った。
(久しぶりに自分の骨を見たけど、キレイだったなあ・・・・・。まあ、それはそれとして)
奥の方で、見えないところもあるので何ともいえない、ということだったが、
今日になって随分と楽になってきたから、折れてはいないのだろう。
首の回りも違和感があったのだけれど、大丈夫そうだ。
そんな"凶事"を連想させるようなことが続くと、何か原因があるのではないかと、だれもが悪者探しをしてしまう。
そして、その悪者を排除してしまえば、改善できると思ってしまう。
思った方が、気は楽だから。
でもさ、そんなに力の強力な悪者っているんだろうか?
根こそぎ、悪い方向へ引っ張り込んでしまうような、そんな存在っているのかなあ。
相性が悪くて、よくない化学反応を起こしてしまうことはあるかもしれない。
うんうん、これはあるなあ。
食い合わせって理由があるというし、
フグのようにおいしいものには毒があるし・・・・・(関係ない?)
まあ、できればそんなこともあるさと鷹揚に構えていられればと思うわけです。
いいことばかりが続くことはないし、
悪いことばかりが続くこともきっとない。
そう信じて、生きていくのさ!
(なんか今日のテンションやっぱりおかしい?)
「社長! 今日、取材先に30分も遅れていって、原稿がどうしても書けなくて、編集長からは怒られて・・・・・、でも道で100円拾いました! 悪いことばかりは続かないもんですね~」
「悪いことが全部仕事がらみでは? しかもいいことが100円・・・・・」
「あっいや、たとえですって」
「だっからよ~!」
2011/10/22 何に対して頭を下げるか
最近、何かに対して頭を下げたことがありましたか?
頭を下げるシーンというのは、いろいろある。
例えば、感謝の気持ちを表すとき(こうれは「どうもありがとう」かな)、わびるときや謝るとき(「どうもすみません」)、商売をしていればお客さんに(「まいどあり」とか)、武道などの前(「よろしくお願いいたします」かな)、などなど。
呼び名もいろいろあり、「頭を下げる」「お辞儀をする」「礼をする」「会釈する」「最敬礼」・・・・・それぞれに微妙に異なる。
今日は午前中、太極拳をやってきた。
稽古を始める前に、まず礼をする。
腰から曲げ、手が床につくほど、コウベを垂れる。
これは、師に対して、一緒にやる仲間に対して、よろしくお願いいたしますという気持ちを込めることと、今日の稽古に参加できたことへの感謝、そして今ある自分に対して感謝・・・・・という意味だと解釈している。
これは、「礼」。
最近よくTVなどで見かける、企業のトップレベルの人が頭を下げるシーン。
あれは、「叩頭(こうとう)」といって、頭を地面にすりつけるほどお辞儀をすること。さらにエスカレートすれば「土下座」となる。
あまり見たくないお辞儀・・・・・。
日常、お店などで店員は、お客さんに対して「いらっしゃいませ」と頭を下げる。
日々、スタッフの働きぶりには、頭が下がる・・・・・。これは、感服するとか敬服するという意味だ。
人は、どのようなときに、何に対して頭を下げるか。
ある人が言った。
「頭を下げる対象は、その人にとっての絶対価値のあるもの。商人は、顧客に対して頭を下げる。しかしこれを、商人にとっての絶対価値が顧客だと思ってはいけない。商人にとっての絶対価値は、その裏にある"お金"なのだ」と。
謝罪して頭を下げる人が、誰に対して、何に対して頭を下げているか、冷静に見ているとそれは見えてくる。
そういえば、最近のお店のスタッフは、笑顔で「いらっしゃいませ!」と言ってニッコリするけど、頭って下げていたっけ?
マニュアルには感謝の気持ちは含まれておらず、スタッフにとっての絶対価値は目の前のお客さんではないのだ。
日本には、至るところに神社やお寺がある。
小さなほこらがあったり、意外な身近にお地蔵さんがあったり、古木がご神木として祀られていたりもする。
家の中には、神棚があり、仏壇もある。
これらに触れたとき、自分は素直に手を合わせ、頭を下げてしまう。
お願いごとをして「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。
朝、「おはようございます」と頭を下げ、ただ単に「こんにちは」と頭を下げ、「おやすみなさい」と頭を下げる。
ときには、「どうぞ、お導きください」と頭を下げることも・・・・・。
じゃあ、これが自分の絶対価値なのか? と自問自答してみても、よくわからない。
絶対価値に対してしか頭を下げないのか? と聞かれてもよくわからない。
よくわからないことには、こたえを出さなくていいと自分のブログにも書いたので、これはこのままにしておこうと思う。(「無記」についてのブログ http://www.zerohachimaru.net/blog/igarashi/2011/10/02/ )
ただ、頭を下げる人を冷静に見ていると見えてくることがある。
頭を下げようとしない人からも、同じようにいろいろなことが見えてくる。
お辞儀ひとつとっても、世の中見えてくることがたくさんある。
「社長! おはようございます!!」
「おぉ~。そんなに深々とお辞儀をしなくてもいいんだよ」
「あっ、すみません! 足もとに100円が落ちていて・・・・・」
「だっからよ~」

